三里塚2009/11/02

 20数年ぶりに三里塚(成田空港)の反対運動の現場を訪ねてきました。青春の古戦場(少しですが)でもあって感慨深く、何回かに分けて写真もふくめて紹介します。
 まず最初の写真は、反対運動のシンボルである建造物がターミナルビルから見える空港のど真ん中にある様子から。

 「横堀要塞」  不鮮明ですが画面中央やや左のフェンスに囲まれたところです。詳しくはまた明日。

三里塚 Ⅱ2009/11/04

  20数年ぶりの三里塚。以前デモ隊として通っていたころは、東京から京成電車で成田まで、または自動車に相乗りして行ったものです。

 今回はJR総武線で成田空港第二ターミナル駅、ターミナルビルではしっかり見学もしてから地下道で芝山鉄道の東成田駅、そこから徒歩、というとても反対派とは思えないルートで現地入り。この地下道、地元対策で作られてあまり乗る人もない芝山鉄道の利用客専用なので、煌々と明るいのに人影がない、ちょっとSF映画にでも出てきそうな、それにしても広告用の額にも何も貼られていない、安物のセットみたいな非現実感の漂う500mでした。

 三里塚闘争支援の全国運動のリーダーであった上坂さんの遺体が献体を終えて遺骨となって戻ってきたのを機会に彼が後半生をささげた三里塚闘争の地に何かしるしを残してさしあげたい。こういう企画が持ち上がり、当時の三里塚に縁のあった人々が再び現地を訪れた、その一行に加えてもらったというわけです。
  
 かつて通った木の根部落は跡形もなく空港敷地になっているが、「木の根ペンション」と呼ばれる元団結小屋がフェンスに囲まれて空港の真っただ中に残っている。そこではせ参じた三里塚の闘士たちと交流会。小屋のすぐ横、手を伸ばせば届きそうな所を巨大な旅客機がタキシングしていく。

三里塚 Ⅱ―22009/11/04

 相変わらず一回にひとつの写真しかあげられません。前回のが、小屋のすぐそこをタキシングしていく飛行機。
これが「木の根ペンション」の写真です。

三里塚 Ⅲ2009/11/05

 木の根ペンションと同様に、この新東京国際空港には敷地のそこここに虫食い状に反対派の土地が残っており、反対運動の激しさと、強権発動を繰り返し、その火に油を注いできた国家の愚かしさを物語っている。

 中でも横堀地区に残る旧「横堀要塞」の敷地は完全に空港の中。そことの行き来のためだけに作られた地下道を通って行く。鉄塔には農民のイメージの彫刻が展示されている。すぐ向こうは空港敷地。
 これら反対派の土地には個人所有のものもあれば、いわゆる一坪共有運動の土地もある。長い年月の中、共有者の中には権利を公団に売ってしまった人もいる中で、空港公団は残った共有者に対して訴訟を起こしてきたという。

 訴状にいわく、「共有地権の大半は既に空港公団が持っており、いまや当該の土地は空港反対運動の目的以外に何らの経済的利用をされていない。(だから公団に強制買い上げさせてくれ)」

 思わず突っ込みが入ります。「あたりまえだ。空港反対のために所有している土地が空港反対に役立っていれば十分だ。それ以上何の役に立てというのか」

 空港公団がこんな訴訟を起こしてくるのは、1980年代に反対派との話し合いの中で「今後は強制収用はしません」との約束がされたからです。
 
 土地収用法(重要な公共事業のためには私有地を強制買い上げすることができるという法律)を適用し、その収用にあたって思い切り警察の暴力がふるわれたことがこの対立を昂進させた大きな原因の一つであり、その後の暴力的弾圧と実力抵抗の連鎖の始まりであったことを思うと、昔日の感があります。

 しかし、喧嘩で圧倒的にどついていたほうが、「今後はどつきません」と言ったからといって、それまでその暴力によって獲得したものを返さぬ限り「イーブン」になったとは言えないわけです。

三里塚 Ⅳ2009/11/05

 あくる日は古戦場めぐり?
 「横堀要塞」「東峰十字路」「岩山鉄塔」「第5ゲート」・・・、三里塚闘争史にその名を欠くことのない地名たちがつぎつぎと・・・。

 いずれも、あるいは草むし、あるいは市街化し、当時の面影は残さない。中でも歳月を思い知ったのは辺田部落。
素晴らしい谷津田。それを取り囲む小高い丘の南斜面に並んでいた、なじみの屋号をもった農家が一切がっさい無くなっていた。
 
 そこは空港の騒音地域で、今は近くの代替地に部落の皆さんは転居されている。今の代替地は真っ平の土地。当時は北に背負った丘がこの地方の厳しい冬の季節風を遮ってくれていたはずだが・・。 

 この頃「いなか」に少しは関心の出てきた私にしてみると、こんなにいい土地を捨てさせた空港はつくづく罪作りだと思うのでした。

三里塚 Ⅳー22009/11/05

なつかしの辺田部落あと