復帰2011/05/11

 復帰します。

「ありがとう、さようなら」2011/05/11

 東電福島第一の原発事故を受けて、脱原発を訴えるデモや集会が盛んです。その中で、「(原発)ありがとう、さようなら」というメッセージを掲げている若者たちがいたという話をききました。

 とても良い意思表示だと思います。
 ・・・私たちはこれまで原発の生み出す電力の恩恵に浴してきました。でもこのような危険が現実になった今、お別れする方向を選びます。・・・

 「そら見たことか」と声高に非難するでもなく、「原発を止めようというのなら電気を使うな」と理不尽に迫るのでもなく、実際の経過を踏まえて、現実的な転換の道を選ぶ。

 原子力発電をめぐる議論は、ともすれば声高なののしりあいになりがちでした。
 一方は、政策的妥当性を超えた国費の後押しを受けて、大独占企業が進める事業であり、圧倒的な資金と物量で、安全と必要を宣伝する。その宣伝の中には、明らかな詭弁や問題のすり替えがあるが、反論や指摘は物量の前にかき消される。
 他方は、疑問や批判が深まれば深まるほど、それがかき消されることにいらだちや焦りがつのり、ともすれば説得や事実の提示よりも、非難や攻撃が前面に出て、次第に余人の近寄りがたいものになる。

 「ありがとう、さようなら」は卒園、卒業の際にうたわれる歌の歌詞でもあるそうです。意味は違って使われているのですが、その言葉のおだやかさが生きて、とげとげしい議論を和らげながら、進む方向もきちんと示す良いメッセージになっています。

「最悪を想定し、最善を尽くす」2011/05/11

  阪神大震災の後、当時の防災計画を作った学者が次のようなことを述懐していた事を記憶しています。

 「計画の想定震度を震度5強(当時の表示法で最高の震度)にすべきではないかという考えもあった。しかし震度5強を想定すると避難計画も復興計画も十分にたてられないので、最高震度を想定するのを止めた。」
 この発想法が危機管理の最大の敵です。
 「満点を取るために、問題の方を能力に合わせて作る」ようなもので、官僚組織に蔓延しがちな思考法です。

 太平洋戦争の帝国日本軍(当時最大の官僚組織)の参謀たちもこの思考法に取りつかれていた。 
自分たちの力はこれだけだから、それ以上の力で攻めてくるという「想定」はしない。

 つながりますね、「想定外」という言葉に・・・。
 「想定不適切事象」という言葉も原発の設計では使われていたそうです。想定する事が適当でないケース?
 想定しても十分な対応が計画できないケースということなのでしょうか。

 ある日の記者会見で、東電関係者だか、国の役人だかが、「全ての場合、例えば、隕石が落ちてきて当たったら、というような場合まで想定することはできない」と答えているのを聞きました。

 隕石が落ちてきて当たる場合と、ここ数百年の歴史の記録に残っている規模の大地震、大津波とをこのように同列に論じること、これを詭弁と言わずに何と呼びましょう。

 それでも、隕石の場合でも回答はあります。
 「隕石が命中した場合=破壊された原子炉からの放射性物質の飛散に対する最大限の対策をとる」
 しかないですね。
 満点の答案は書けません。でも最善を尽くす。です。

 そして、このリスクが取れない、つまり起きうる被害とその確率と受ける利益の比較が「割に合わない」なら「そもそもやめておく」事です。

 私は、原発はリスクと比べて「割が合わない」からやめるべきだという意見ですが、推進する側もチャンとしたリスクの話をしてほしいものです。

 事故や災害時の被害の規模と、その確率をちゃんと説明し、原発による発電の必要との比較を示す。そのような説明はかつて聞いたことがありませんでした。今回が実地勉強というわけですか。

 「絶対安全です」と言っておいて、事故が起きたら「想定外」。
 どちらも「うそ」です。

 こんなウソをお金にあかせてごり押しする事は許されません。