日の丸条例その後2012/06/18

 日の丸条例は、今日6月18日の総務委員会で否決になりました。

 しかし、
 普通、常任委員会での結果は本会議でも同様の結果になるのですが、今回はそうとばかりも言えません。
 
 委員会では、公明党から修正案が出されたので、まず修正案から採決になりました。修正の内容は、常時掲揚すべき場所から学校現場を外し、市の施設も限定しようというものです。

 採決では、原案提案者の新政会が修正案に賛成しましたが、賛成少数で否決になりました。続いて原案が採決されたのですが、賛成は新政会の一人だけで、これも否決。

 結局、総務委員会ではどの案も通りませんでした。

 この後は、26日の本会議で、総務委員会から原案否決が報告されます。すると本会議では改めて原案が採決されるのですが、修正案を出した公明党の賛成が見込めませんので、このままでは否決される見通しです。

 ところが、委員会で否決になった修正案を、本会議で改めて提案する事は可能です。その場合は原案提案者の新政会の賛成も見込まれますので、新政会、公明党以外に2人の議員の賛成があれば修正案が可決される事になります。
 そしてその、2人以上の他の会派からの賛成が見込まれる情勢です。

 本会議に改めて修正案が提案されるかどうかは現在のところわかりません。その動きがあるとすれば来週中、遅くとも25日の議会運営委員会で、確定します。

 ご注目を。

時間逆行。日の丸条例上程2012/06/19

 「日の丸条例その後」という昨日の文章に「前が書いてないのに「その後」はないだろう」とのおしかりを受けました。

 なるほど紙の「酒井 一ニュース」にははじめから書いたのですが、ブログには載せていなかったわけでおっしゃる通りです。

 早速ニュースに書いた最初の経過を載せます。今年の3月の文章です。


 

 「尼崎市国旗の掲揚に関する条例」案が2月議会にいきなり提案されました。
 2月13日の議会運営委員会で案を示し、20日の本会議開会で上程。それまでは何の話もなし、という急な運びでした。
 新政会の議員10人全員が提案者。新風グリーンクラブ、私たちの緑のかけはしの中にも賛成の動きがあり、公明党の帰趨如何によっては、成立しそうな成り行きでした。
 結果、2月議会では「継続審議」となり、6月議会で成否が決まる成り行きです。

 国の法律で「国旗は日の丸、国歌は君が代」と定められてから数年たちますが、国旗、国歌に対して起立しなかったり歌わなかったりした学校の先生が処分されたりして何かと騒がしいのです。

 何にせよ、挨拶や礼儀作法はきちんとできるに越した事はありませんが、それが「処分」などで強制されるとなると話が違ってきます。
 まして、その不起立や不斉唱が、その人の歴史観や主義によるものだとしたら、処分には思想統制の匂いが強まります。
 東京の石原都知事、大阪では橋下大阪市長が、このような統制的なやり方のさきがけになっていますが、尼崎でもその影響を受けた人々がこの提案をしたようです。

 私自身は日の丸はデザインとしては簡明で素敵だと思っています。
 しかし、どこの国旗でもそうですが、国旗はその国の歴史と社会の良い面も悪い面も合わせて背負っています。
 自国の国旗を扱う場合は、特にその背負っている歴史の悪い面を無視してはなりません。

 わが国の場合はかっての侵略と戦争、国内での思想言論弾圧や差別、がその悪い面です。日の丸のもとで、かつての日本にひどい目にあわされた人たちがいるのです。
 その被害者が日の丸に対して持つ思いへの配慮を欠いてはいけません。その歴史への反省ぬきに日の丸を掲げてはいけません。これはよく言われるような「自虐」ではなく、まっとうな「自省」であり「自己認識」です。
 そこに国旗の意義もあるのです。 

 「条例で強制しなくても・・・」という批判に対して、提案者は「条例で定めなければ尊敬されない事が情けない」と言いました。
 しかし、「尊敬」や「愛国心」は「自発性」という土壌にしか育ちません。義務や強制のもとでは、愛国心や愛郷心に「似て否なるもの」すなわち、屈従や排外主義しか生まれないことを知るべきです。

 実は、市役所本庁舎には以前から市の旗と並んで国旗が掲げられています。国の通達に従っているのだそうです。
 ちょうどこの条例案が提案されたころ、その国旗がボロボロになっていました。
 「国旗を大切にして愛国心を養おう。市の建物すべてに国旗を掲げよう」と言いながら、提案者の誰もそれには気づいていなかったようなのですが・・・。

震災がれきと放射能汚染問題2012/06/19

 あの大地震、大津波、原発事故から、はや1年。
 3月以来、急に政府もマスコミも「震災がれきの処理を全国の自治体で!」のキャンペーンのトーンを上げてきました。
 前号(70号)や議会発言で、私は「がれき処理の放射能対策について尼崎市の主体性を!」と主張しました。その続きですが、事態はもっと切迫しています。

受け入れに疑問を唱えたらわがまま?

 山形県や東京都では既に岩手県や宮城県のがれき処理を始めています。3月末には関西広域連合が、「受け入れ100Bq(ベクレル)/㎏以下、焼却灰2000Bq/㎏以下」という、国よりも厳しい基準で受け入れることを決めました。

 しかし、「関西広域連合」を構成する大阪府や、兵庫県などの府県には焼却炉はありません。
 焼却炉を持っているのは尼崎市のような市町村です。放射能汚染から住民を守り、放射能に不安をいだく住民に直接向き合うのもまず第一に市町村なのです。
 その市町村は今のところ「蚊帳の外」です。環境省は「8000Bq/㎏までは大丈夫」などという、にわかには信じられないような「安全(?)」基準を示しただけ。

 放射能への不安は高まるばかりなのに、
「がれきの受け入れで国民性が試される」
「受け入れを断るのは、『嫌な事はしない』という考
えで、憲法9条教育のせいだ」
などと、「非国民」とでも言いたげな、野田総理や橋下大阪市長の口ぶりには、あきれてしまいます。

答えてもらっていない疑問がある

 がれき処理を要請するなら、最低限、以下の疑問に答えて貰わねばなりません。
 ① 被災地の自治体の首長の中には、「がれきは地元で  処理する方が地元雇用も生み、復興の助けになる」と  言う人もいる。 なぜそうしないのか?
 ② 2200万tのがれき総量のうち1800万tは地元で3  年計画で処理するという。全国に協力を求めるのは   わずか400万t。
   それだけならば、もう数か月をかければ地元処理で  きるのではないか?放射能拡散のリスクを冒した上、  多額の運搬費をかけてまで全国各地に運んで処理しな  くてはいけない理由は何か?
 ③ 放射能の安全対策が決定的に不足している。放射能  の基準と監視をもっと強めねばならない。        8000Bq/kgは論外。ましてや大阪湾に水溶性放射能  の灰を埋め立てるのは言語道断。
   海が汚染されると生物濃縮で私たちに帰ってくる。

稲村・尼崎市長が独自の考え方を示す

 ここまで書いていたら、稲村市長が記者会見して次のように表明しました。
「尼崎市は受け入れ瓦礫も焼却灰も100Bq/kgを前提に受け入れの可否を検討する。検討は市民との情報共有、対話を通して行う。」 ということです。

 100Bq/kgという数値は福島原発の事故以前に「放射性廃棄物としてあつかわずにリサイクルにまわしてもよい基準」とされてきたものです。
 放射能は100Bq/kgでも完全に無害とは言えませんが、福島の事故までは、この100Bq/kgという数値以外にわが国には公式の「安全」基準はなかったのです。

 稲村市長のこの提起は、環境省が8000Bq/kgなどというとんでもなく高い値を安全の基準として国民に押し付けている状況に一石を投じました。
 「あなた方は福島以前は100Bq/kg以下を安全基準としていたのじゃないですか?」

 他の、反対を表明している自治体は「安全が確保できないから」という理由を掲げているのですが、安全基準は国任せの姿勢です。
 これでは、環境省が8000Bq/kgを目安に「安全だ」とごり押ししてきた場合、拒否しにくくなる恐れがあります。
リスクコミュニケーションが大切

 受け入れの可否を検討するにあたって市民との対話から出発する、というのは新しくて良い手法で、高く評価します。リスクをとるのは市民なのですから。
 受け入れるにせよ、断るにせよ、広域処理の必要性と放射能から被るリスクについての情報を行政と市民が共有し、十分に議論したうえで決定するというリスクコミュニケーションの取り組みこそが、このような難問には求められるでしょう。

ナチズムの健康、清潔、環境志向2012/06/20

 大阪の橋下市長をはじめとする「維新の会」が注目を集めています。
 民主党の政権交替が期待はずれの迷走状態。と言って自民党など野党にも、はっきりした展望がない。
 こんな中で「統治機構を変える」「決めて実行する」などと、くっきりした物言いをする橋下さんへの期待が高まっているのでしょう。
 
 他方では、その攻撃的な姿勢と独善的な言論に対して、「ハシズム」などと警戒心をいだく向きもあるようです。 「ハシズム」というのはドイツのヒットラーに率いられたナチスの「ファシズム」に似ている、と言うことなのですが・・・。

 「健康帝国ナチス」という本を読みました。第二次世界大戦をおこし、ユダヤ人虐殺をはじめ、様々な人道犯罪をおかしたナチスが、他方では、たばこの害を訴える撲滅運動を大々的に展開した世界初の政治団体であることを知りました。
 
 他にも、ガン撲滅の研究と運動、食品安全(全粒粉のパンを推奨、添加物に反対)、動物愛護、アスベストや放射線の害への警告、菜食主義・・・。
 ナチスはこのような主張とキャンペーンを行っていたのです。        

(太字は引用)
 「反ユダヤ主義はナチスのイデオロギーの中核であったが、大衆がナチスに惹かれたのはそれが最大の理由ではなかった。
 大衆はナチズムに、その健康志向をはじめとする様々な分野に、若さの回復を見たのである。ナチズムに、大手術と徹底した浄化を望んだのである。しかもそれは必ずしも、忌まわしい方向だけではなかった。」

 「我々が普通に考えている以上にナチズムというのは込み入ったもので、まことしやかな、妙に魅力的な側面すら持っている・・。
『我々』と『奴ら』を隔てる壁はそれほど高くない・・。」

 「ドイツの工場の空気と水からアスベストと鉛を除去しょうというのと、ドイツ国家からユダヤ人を一掃しようというのは同じ発想だ」

 ナチズムについて、「異常人格者」や「狂気」、「感情的で攻撃的な民族主義」などというレッテルだけで考えているととんでもない見当違いをしてしまいます。

 「健康」や「清潔」だけでなく、ワンダーフォーゲルやユースホステルや労働者保養施設やアウトバーン(高速道路網)やフォルクスワーゲン、といった沢山の「良いもの」と共に、正にそれらを生み出すものとして、ナチズムはドイツ民衆の心を捉えたようです。

 橋下さんが既得権と闘い、原発に反対する姿勢はどう受け止めたらいいのでしょうか?
ひょっとすると、その目じるしは、ナチスが掲げた次のようなスローガンにあるのかもしれません。

 「健康は義務である!」
 「食事は自分だけのものではない!」
 このような「匂い」のする言葉が出てきたら気をつけたほうがよいのでしょう。

さよなら原発、原子力村2012/06/20

  
 「福島原発事故独立検証委員会」の報告書が出版されたので早速読み始めました。
 「独立検証」の名に期待した通り鋭い内容が多く、読み終える前ですが、
 印象的な言葉をキ―に一部紹介します。 
        (北澤宏一委員長の巻頭言から)

言葉1 「最悪のシナリオ」
 2号機の爆発や4号機の使用済燃料プールの大気露出など、避難半径200㎞、避難住民3000万人などという事になる可能性が、「現実」にあったのです。

言葉2 「エリートパニック」
 パニックを避けるためという口実での情報操作。SPEED1の汚染予測の隠ぺいなど。おかげで多くの住民が風向き方向に逃げて、避けられた放射能被ばくにさらされました。

言葉3 「安全神話」
 「原発は安全」と言う→「安全性の向上が言えない」という自縄自縛に陥っていたのです。

言葉4 「空気を読む」
 もともと日本社会にはこの傾向が強い。「安全神話」の空気を読む。これが今回の事故の遠因です。

言葉5 「原子力ムラ」
 原子力関係者が利害の結びつきの中でお互いに空気を読みあって真実から目をそらしていました。
 電力会社の労使から政治家への     【献金】
 マスメディアへの               【広告費】
 研究者への                  【寄付】
 官僚の電力関係会社への         【天下り】
 電力会社から政府関係団体への無償  【出向】
 自治体への                   【交付金】
 電力会社から政治家への          【寄付】

 まさにこれらのお金や便益供与を肥やしにして、空気を読み合う利益共同体ができているのです。

言葉6 「政府に事故対応の法的知識が
              なかった」
 安全神話のもとでは政権についたばかりの大臣たちに危機マニュアルを教えることは後回しになりますよね。そもそも、ちゃんとした危機マニュアルがあったかどうかも疑わしいのですが。

言葉7 「この国にはやっぱり神様が
      ついていると心から思った」
 私には驚きの言葉でした。
 官邸の中枢スタッフがそう述懐したそうです。制度も情報も対応能力もない政府と東電の下で「よくこの程度にとどまったものだ」との思いでしょう。

言葉8 「ただちに影響はない」
 官房長官の枝野さんはこの言葉で、私たちに政府の発言への不信を徹底的に植えつけてくれました。
 「ただちにない」は「先々はある」という事でしょう。

福島事故の死亡者2012/06/21


 よく考えてみると、福島原発の事故で死者が出たという報道の記憶がありません。あの爆発で死者はなかったのでしょうか?

 しかし少し想像力を働らかせれば、限りなく直接に近い犠牲者が出ている事は想像できます。
 
 津波と地震の被害で救助を必要としていた人で、放射能による立ち入り禁止により救助が入れなかったことにより亡くなった人。
 
 放射能からの避難ができず、または避難のために医療の不足から命を落とした人。
 
 そしてもちろん放射能からの避難生活のストレスが命にかかわった人。

 阪神大震災では、震災のストレスによる死亡も震災の死者の中に数えたはずです。

 東日本大震災でもこの人たちは震災の死者には数えられるでしょう。

 しかし、本当は、これらの人たちは原発事故による死亡者に数えられなければいけないのではないでしょうか。

日の丸条例修修正可決2012/06/26

 日の丸条例修正可決

 今日の本会議で、日の丸条例は公明党の修正案で可決されました。23対17でした。賛成は公明党、新政会、新風グリーンクラブの一部。反対は、私たち緑のかけはし、共産党、新風グリーンクラブの一部、でした。

 主な修正内容は、
 ○掲揚の対象から学校を外す。
 ○掲揚すべき市の施設を、本庁、支所、消防署に限る。
 というものです。

 国旗を掲揚すべき市の式典については限定がないことが問題ですが、提案者の公明党の仙波議員の答弁は「市長の裁量。現市長である限りは拡大解釈の恐れはないだろう」というものでした。

 可決は残念です。国旗はその国の国民からの自然な感情にもとづく尊敬を得るべきもので、条例や法律で強制するべきものではありません。

 同時に今、国旗のことを声高に主張する勢力と、今日の議会の傍聴に初めて登場した排外主義者の若者たちのような人々が重なって見えることが危惧されます。

 原案を提案した新政会も、修正して原案の過激さをおさめて成立に持ち込んだ公明党も、今日の議会に傍聴に来ていたような排外主義者と同じ考えだと思いたくはないのですが・・・。

 提案された3月議会での質疑で私は、「国旗というものは、良くも悪しくもその国の歴史を背負う」と言いました。背負った歴史を正しく認識して対応するなら、その国の象徴たる国旗が何であっても問題ではないはずです。

 問題は、今、国旗-日の丸を声高に主張する人たちが、歴史に対する一方的な主張を同伴しているように見えることです。

 そこでは、国旗に対する態度が歴史観の対立と重なってしまいます。

「日本のかつての戦争は侵略戦争であったのか自衛戦争であったのか」 と
「日の丸を否定するか、肯定するか」

が重なるのです。

 そこが重ならなければ、国旗の是非とは別に、もっと冷静にこの国の歴史の光と影を議論する事が出来るはずです。

 それが重なっている限りは、私は、日の丸と侵略の肯定を重ねる議論に対して反対派たらざるを得ません。

 
 もうひとつ、そのような構図を描いて、国旗に賛成するかどうかで国民かどうかの「踏み絵」を迫ることにもなっている事についても私は否定的です。

 何事によらず、「踏み絵」ほど人間の品性を貶めるものはありません。
この世で最も忌むべきものです。