公選法違反?笑わせないでくれ ― 2025/02/05
昨秋の兵庫県知事選挙以降続いている県議会100条委員会メンバーへの誹謗、中傷攻撃。その後も激しさを増しています。尼崎選出の丸尾県議には「公選法178条に違反した」とのデマ、言いがかりが付けられています。それについて、
以下、丸尾県議が見解を求めた弁護士の文章を孫引きします。
公職選挙法第178条が禁じる祝賀会やその他の集会とは、あくまでも挨拶を目的とした集会に限定されます。
この点、丸尾氏の集会は、①表題が「選挙報告会」ないし「県政報告会」であり、②行った活動も丸尾氏が取り組んでいる情報公開、人権擁護、地域経済活性化、福祉社会構築といった県政課題の報告が多くを占めると共に、参加者からの質問や意見を聞く時間を十分設けていますので、「挨拶する目的」でなされた当選祝賀会に該当しないことは明白です。
丸尾氏が昨年の県議会議員選挙後に行った4月23日県政(選挙)報告会について、下記の法律に違反するとの指摘があります。
公職選挙法第178条第1項第1号では、挨拶する目的をもって、選挙人に対して個別訪問することや、当選祝賀会やその他の集会を開催することが禁じられています。またこれを受け、同法第245条は「第178条の規定に違反した者は、30万円以下の罰金に処する。」と規定しています。それに該当するのではとの指摘です。
この点、公職選挙法第178条第1項の立法趣旨は、期日後の挨拶行為が事後買収の温床となりやすいという点にあります。
一方、民主主義が機能するためには、有権者の知る権利(憲法第21条1項が保障する表現の自由の一環として保障されています。)が充足されなければなりません。知る権利を実現する観点からは、国会議員・都道府県会議員・市区町村会議員が有権者に対し、国政や地方政治に関する報告を行うことは、むしろ憲法尊重擁護義務(憲法第99条)の一環としての義務にあたります。とりわけ、公職選挙法第178条1項5号の「当選祝賀会その他の集会」を拡張解釈して、「挨拶する目的」を伴わない県政集会まで禁止されるなどと解することは、集会の自由(憲法第21条1項)を保障した日本国憲法の下ではおよそ許されるものではありません。
以上より、公職選挙法第178条が禁じる祝賀会やその他の集会とは、あくまでも挨拶を目的とした集会に限定されます。
この点、丸尾氏の集会は、①表題が「選挙報告会」ないし「県政報告会」であり、②行った活動も丸尾氏が取り組んでいる情報公開、人権擁護、地域経済活性化、福祉社会構築といった県政課題の報告が多くを占めると共に、参加者からの質問や意見を聞く時間を十分設けていますので、「挨拶する目的」でなされた当選祝賀会に該当しないことは明白です。
なお、参考までに、事務所に、当選御礼の張り紙はよく見かけるところですが、公職選挙法第178条第2号に抵触すると考えられることから、丸尾氏は一切そういうことは行っていません。また、この集会において提供された飲食物には、参加者は参加費を払っています。
以下、丸尾県議が見解を求めた弁護士の文章を孫引きします。
公職選挙法第178条が禁じる祝賀会やその他の集会とは、あくまでも挨拶を目的とした集会に限定されます。
この点、丸尾氏の集会は、①表題が「選挙報告会」ないし「県政報告会」であり、②行った活動も丸尾氏が取り組んでいる情報公開、人権擁護、地域経済活性化、福祉社会構築といった県政課題の報告が多くを占めると共に、参加者からの質問や意見を聞く時間を十分設けていますので、「挨拶する目的」でなされた当選祝賀会に該当しないことは明白です。
丸尾氏が昨年の県議会議員選挙後に行った4月23日県政(選挙)報告会について、下記の法律に違反するとの指摘があります。
公職選挙法第178条第1項第1号では、挨拶する目的をもって、選挙人に対して個別訪問することや、当選祝賀会やその他の集会を開催することが禁じられています。またこれを受け、同法第245条は「第178条の規定に違反した者は、30万円以下の罰金に処する。」と規定しています。それに該当するのではとの指摘です。
この点、公職選挙法第178条第1項の立法趣旨は、期日後の挨拶行為が事後買収の温床となりやすいという点にあります。
一方、民主主義が機能するためには、有権者の知る権利(憲法第21条1項が保障する表現の自由の一環として保障されています。)が充足されなければなりません。知る権利を実現する観点からは、国会議員・都道府県会議員・市区町村会議員が有権者に対し、国政や地方政治に関する報告を行うことは、むしろ憲法尊重擁護義務(憲法第99条)の一環としての義務にあたります。とりわけ、公職選挙法第178条1項5号の「当選祝賀会その他の集会」を拡張解釈して、「挨拶する目的」を伴わない県政集会まで禁止されるなどと解することは、集会の自由(憲法第21条1項)を保障した日本国憲法の下ではおよそ許されるものではありません。
以上より、公職選挙法第178条が禁じる祝賀会やその他の集会とは、あくまでも挨拶を目的とした集会に限定されます。
この点、丸尾氏の集会は、①表題が「選挙報告会」ないし「県政報告会」であり、②行った活動も丸尾氏が取り組んでいる情報公開、人権擁護、地域経済活性化、福祉社会構築といった県政課題の報告が多くを占めると共に、参加者からの質問や意見を聞く時間を十分設けていますので、「挨拶する目的」でなされた当選祝賀会に該当しないことは明白です。
なお、参考までに、事務所に、当選御礼の張り紙はよく見かけるところですが、公職選挙法第178条第2号に抵触すると考えられることから、丸尾氏は一切そういうことは行っていません。また、この集会において提供された飲食物には、参加者は参加費を払っています。
いなむらさんの兵庫県知事選挙敗北に思う ― 2024/11/23
いなむら県知事選挙の敗北に思う
斎藤前知事が受けていた批判は主に「おねだり」と「パワハラ」そして「権力の乱用」でした。そのうち「おねだり」と「パワハラ」は、もちろんいけないことですが、特に今回のように強力な反論キャンペーンがされる場合、「ほんとのところはどうなの?」状態に持ち込まれやすいのです。
それに比して、「権力の乱用」は、職員からの「内部告発」に対して、知事の権力を用いて告発者探しをし、資料を押収し、人事処分をしたというものですが、知事本人も、この権力の行使は正当だと言っており、事実関係に争う余地がありません。
そしてこれは、権力者・政治家としての倫理に反するばかりか明確に「公益通報保護法違反」だったのです。この点について、県議会の百条委員会においては、ほぼ「法違反」との認識が固まりつつありました。
しかし、県議会は百条委員会の明確な判定を待つことなく、追及半ばで、知事不信任決議に踏み切りました。
1 今回の知事選の本質的な争点は、この「違法状態」を許すのかどうかにあったのです。
権力者を規制する法律に対する違法行為を「正当だ」と言っている人を再び知事にしてよいのか?それを争点とするべきだったと私は考えます。
そのためには百条委員会で「違法」を公式に認定するべきでした。それを待たずに、不信任決議から知事選挙へと走ったことによって、今回の選挙は、民主主義の根本を争う性格を薄めてしまいました。
本質的争点を掲げないことによって、いなむら候補は「挑戦者」であることが難しくなってしまいました。この本質的争点以外に県政の政策的にはこれという争点は設定できませんでした。最初の確認団体チラシには「3期12年の尼崎市政における実績」(立派な実績で、まっとうに考えれば県政を担当するにふさわしい資質の証明なのですが)しか書けませんでした。これが逆手に取られ「改革派」VS「実績=守旧派」の構図に利用されます。
2 相手方はそこを突いてきました。
「おねだり」や「パワハラ」について、一つには「程度問題」という印象を与え、その上に「反省」をアピールすることで、二つ目には県議会や県庁、いなむら陣営を「既得権益集団」とし、斉藤前知事をそれに対する「改革派」、という図式を作り上げることで、「かわいそうな斎藤VSそれをいじめる県議会、マスコミ」、そして「孤独な改革派VS既得権の守旧派」の対立を描き出したのです。一人で駅立ちすることから始めた斎藤前知事の選挙運動はその図式にピタリとはまりました。
3 次に起きたことは、
立花に代表される勢力の「斎藤応援のための立候補」などの「援軍」の登場です。この勢力のやったことは、立候補者の選挙法上の権利の想定外の悪用、ネット上での徹底したプロパガンダと、街頭への動員、そしてその相乗作用、そして後半ではプロパガンダによる徹底的な個人攻撃でした。
これらのプロパガンダに、ネットでしか情報を得ようとしない若い世代が引き込まれました。彼らが強く抱いている時代、社会の閉塞感が、これらのアピールに共鳴したようです。
50代を境に若い世代ほど斎藤支持の率が高い、という結果に、若い世代に広がっている社会への反発、憎悪を見て取るべきだと思います。
加えて、そのプロパガンダの言辞の暴力性と街頭でのむき出しの暴力(反対者に対する妨害排除の説得などなしにいきなり「殺したろか」から始まる恫喝)が見ている人に恐怖心を与えたことも見逃してはいけません。尼崎でも、ポスターの顔の口のところにタバコの火を押し付けるなどの嫌がらせもありました。
私の周りでも、本来いなむら支持であったろう女性の中に「怖い、かかわりたくない」という声が広がりました。
4 プロパガンダについて。
「ネット」に負けた。という声が回りにあがっています。私は、そうではなく、「ネット」という手段に負けたのではなく、悪質な「プロバガンダ」に負けたのだと考えます。
プロパガンダの手法の一つに「チェリーピッキング」と言われる手法があります。「多くの事例、証拠の中から自分の主張に有利な証拠だけを選んで示し、それと矛盾する証拠や事例を挙げずに自分の主張をする」行為です。このような手法は歴史上もナチスに限らず左翼勢力によって、たびたび用いられてきたもので目新しくはありません。それがネットという新しい媒体で使われたのです。
この手法にとどまらず、呆れるようなデマも含めて、刺激的なキャッチフレーズ、映像、短い文章、で構成された「いなむら攻撃」が、
選挙中盤以降、ネット上にあふれかえりました。
いなむら選対は、これに有効に反撃できませんでした。
全くのウソもありました。これには適切な事実を挙げるなどの反論が可能です。発信の量の問題に期することができます。
事実の一面を挙げて、真実とは異なる全体像を印象付けるという悪質なプロパガンダの手法にはなかなか対抗がむつかしいのです。
〇 感情に訴える形で、映像の効果を最大限り利用。
〇 短い文で(Xは150字制限がある)。
〇 大量に繰り返す。
追加でいうと、この「大量に」には費用がかかりません。逆にセンセーショナルにあおって閲覧が増えるとその分お金がもらえるのだそうです。
首長の経験がある候補者の場合、首長時代の政策に全く欠点や否定的側面がないという事はありえません。そこをついて一面的、部分的なデータや結果を挙げて非難する言説に対して対抗する事は、長い文章や正確なデータの提示を必要とするのでなかなか困難です。
知る限りで例示します。いなむら尼崎市政の政治について、
〇「公立幼稚園を減らした」
しかし、幼稚園児が減ったという事実は挙げられません。
〇「高校生への支援を減らした」として、市の「高等学校費」という費目の推移のグラフを示す。突出した年があり、そのあと低い年が続いています。
しかし、市の「高等学校費」は市立高校の費用です。高校の多くは県立と私立で、その費用は出てきません。突出したのは新校舎の建設費でした。そのほかの年は経常の費用ですね。
等々。これらはどれも「事実」です。このように、都合の良い事実だけを挙げて、その背景や理由を示さないのがチェリーピッキングなどの悪質な「プロパガンダ」なのです。
5 反省すべき点はどこにあるのでしょうか。
ネットの有効性の認識が弱かった。ネットへの力の入れ方が足りなかったのでしょうか。相手を批判するのではない「正々堂々」の選挙戦にこだわりがあったのでしょうか。当初想定していた政治勢力の支持基盤のひろがりについてほぼ達成したことによる「油断」はなかったでしょうか?
私には選対の意思決定についての確かな情報はありませんので、今のところこのような疑問形でしか反省点は書けません。
彼ら―斎藤の逆転を演出した「立花某」などに象徴される勢力はこの成功に味をしめて特に自治体選挙での勢力、影響力の伸長をはかってくるでしょう。それを許すわけにはいきません。
何が必要かについてこれから議論を必要です。皆さんのお知恵も貸してください。
2024年11月21日
前尼崎市議 酒井 一
斎藤前知事が受けていた批判は主に「おねだり」と「パワハラ」そして「権力の乱用」でした。そのうち「おねだり」と「パワハラ」は、もちろんいけないことですが、特に今回のように強力な反論キャンペーンがされる場合、「ほんとのところはどうなの?」状態に持ち込まれやすいのです。
それに比して、「権力の乱用」は、職員からの「内部告発」に対して、知事の権力を用いて告発者探しをし、資料を押収し、人事処分をしたというものですが、知事本人も、この権力の行使は正当だと言っており、事実関係に争う余地がありません。
そしてこれは、権力者・政治家としての倫理に反するばかりか明確に「公益通報保護法違反」だったのです。この点について、県議会の百条委員会においては、ほぼ「法違反」との認識が固まりつつありました。
しかし、県議会は百条委員会の明確な判定を待つことなく、追及半ばで、知事不信任決議に踏み切りました。
1 今回の知事選の本質的な争点は、この「違法状態」を許すのかどうかにあったのです。
権力者を規制する法律に対する違法行為を「正当だ」と言っている人を再び知事にしてよいのか?それを争点とするべきだったと私は考えます。
そのためには百条委員会で「違法」を公式に認定するべきでした。それを待たずに、不信任決議から知事選挙へと走ったことによって、今回の選挙は、民主主義の根本を争う性格を薄めてしまいました。
本質的争点を掲げないことによって、いなむら候補は「挑戦者」であることが難しくなってしまいました。この本質的争点以外に県政の政策的にはこれという争点は設定できませんでした。最初の確認団体チラシには「3期12年の尼崎市政における実績」(立派な実績で、まっとうに考えれば県政を担当するにふさわしい資質の証明なのですが)しか書けませんでした。これが逆手に取られ「改革派」VS「実績=守旧派」の構図に利用されます。
2 相手方はそこを突いてきました。
「おねだり」や「パワハラ」について、一つには「程度問題」という印象を与え、その上に「反省」をアピールすることで、二つ目には県議会や県庁、いなむら陣営を「既得権益集団」とし、斉藤前知事をそれに対する「改革派」、という図式を作り上げることで、「かわいそうな斎藤VSそれをいじめる県議会、マスコミ」、そして「孤独な改革派VS既得権の守旧派」の対立を描き出したのです。一人で駅立ちすることから始めた斎藤前知事の選挙運動はその図式にピタリとはまりました。
3 次に起きたことは、
立花に代表される勢力の「斎藤応援のための立候補」などの「援軍」の登場です。この勢力のやったことは、立候補者の選挙法上の権利の想定外の悪用、ネット上での徹底したプロパガンダと、街頭への動員、そしてその相乗作用、そして後半ではプロパガンダによる徹底的な個人攻撃でした。
これらのプロパガンダに、ネットでしか情報を得ようとしない若い世代が引き込まれました。彼らが強く抱いている時代、社会の閉塞感が、これらのアピールに共鳴したようです。
50代を境に若い世代ほど斎藤支持の率が高い、という結果に、若い世代に広がっている社会への反発、憎悪を見て取るべきだと思います。
加えて、そのプロパガンダの言辞の暴力性と街頭でのむき出しの暴力(反対者に対する妨害排除の説得などなしにいきなり「殺したろか」から始まる恫喝)が見ている人に恐怖心を与えたことも見逃してはいけません。尼崎でも、ポスターの顔の口のところにタバコの火を押し付けるなどの嫌がらせもありました。
私の周りでも、本来いなむら支持であったろう女性の中に「怖い、かかわりたくない」という声が広がりました。
4 プロパガンダについて。
「ネット」に負けた。という声が回りにあがっています。私は、そうではなく、「ネット」という手段に負けたのではなく、悪質な「プロバガンダ」に負けたのだと考えます。
プロパガンダの手法の一つに「チェリーピッキング」と言われる手法があります。「多くの事例、証拠の中から自分の主張に有利な証拠だけを選んで示し、それと矛盾する証拠や事例を挙げずに自分の主張をする」行為です。このような手法は歴史上もナチスに限らず左翼勢力によって、たびたび用いられてきたもので目新しくはありません。それがネットという新しい媒体で使われたのです。
この手法にとどまらず、呆れるようなデマも含めて、刺激的なキャッチフレーズ、映像、短い文章、で構成された「いなむら攻撃」が、
選挙中盤以降、ネット上にあふれかえりました。
いなむら選対は、これに有効に反撃できませんでした。
全くのウソもありました。これには適切な事実を挙げるなどの反論が可能です。発信の量の問題に期することができます。
事実の一面を挙げて、真実とは異なる全体像を印象付けるという悪質なプロパガンダの手法にはなかなか対抗がむつかしいのです。
〇 感情に訴える形で、映像の効果を最大限り利用。
〇 短い文で(Xは150字制限がある)。
〇 大量に繰り返す。
追加でいうと、この「大量に」には費用がかかりません。逆にセンセーショナルにあおって閲覧が増えるとその分お金がもらえるのだそうです。
首長の経験がある候補者の場合、首長時代の政策に全く欠点や否定的側面がないという事はありえません。そこをついて一面的、部分的なデータや結果を挙げて非難する言説に対して対抗する事は、長い文章や正確なデータの提示を必要とするのでなかなか困難です。
知る限りで例示します。いなむら尼崎市政の政治について、
〇「公立幼稚園を減らした」
しかし、幼稚園児が減ったという事実は挙げられません。
〇「高校生への支援を減らした」として、市の「高等学校費」という費目の推移のグラフを示す。突出した年があり、そのあと低い年が続いています。
しかし、市の「高等学校費」は市立高校の費用です。高校の多くは県立と私立で、その費用は出てきません。突出したのは新校舎の建設費でした。そのほかの年は経常の費用ですね。
等々。これらはどれも「事実」です。このように、都合の良い事実だけを挙げて、その背景や理由を示さないのがチェリーピッキングなどの悪質な「プロパガンダ」なのです。
5 反省すべき点はどこにあるのでしょうか。
ネットの有効性の認識が弱かった。ネットへの力の入れ方が足りなかったのでしょうか。相手を批判するのではない「正々堂々」の選挙戦にこだわりがあったのでしょうか。当初想定していた政治勢力の支持基盤のひろがりについてほぼ達成したことによる「油断」はなかったでしょうか?
私には選対の意思決定についての確かな情報はありませんので、今のところこのような疑問形でしか反省点は書けません。
彼ら―斎藤の逆転を演出した「立花某」などに象徴される勢力はこの成功に味をしめて特に自治体選挙での勢力、影響力の伸長をはかってくるでしょう。それを許すわけにはいきません。
何が必要かについてこれから議論を必要です。皆さんのお知恵も貸してください。
2024年11月21日
前尼崎市議 酒井 一
「プロパガンダ」との闘い ― 2024/11/16
兵庫県知事選挙戦の幕が下りた時点でこれを書いています。結果はわかりません。
どのような結果になろうが、この選挙が、このようなえげつない選挙戦になった事自体が、民主主義の危機を示しているという事に変わりはありません。
昨日、斎藤、立花の応援者と目されるSNS上の投稿を指して「プロパガンダ」だ、と書きました。
このような言論と宣伝が政治の世界にはびこり、大きな力を発揮することへの危機感から、もう少し詳しく触れてみます。
ウィキペディアで調べてみました。(ネット批判をするのにネットかい!と突っ込まれそうですが・・)
すると、「プロパガンダ」の様々な種類や効果が詳しく書かれています。
まず、日本語訳です:宣伝戦、政治宣伝。
ちなみに、岩波の国語時時点では「宣伝」としかありません。英和辞典では「宣伝」に加えて「布教」(カトリック)とあります。
語源はラテン語のpropagaere(繁殖させる、種をまく)だそうです。
その多くの手法の中に「チェリーピッキング」という手法が示されていました。
「数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為」と説明されています。
昨日触れた「いなむら市政は公立幼稚園を減らした」という言説は、まさにこれに当てはまりますね。「公立保育園の減少」という事実のみを挙げて稲村市政が子育て支援に背を向けたという印象を与え、その印象を否定し得る「園児の減少」という事実は挙げないというやり方です。
この手法は、
「多くは意図的に行われるが、「確証バイアス」(自分の考えを支持する証拠だけに注目し反証を無視する傾向)」による意図せぬものもある。とありました。
わざわざ投稿するのだから意図的に違いありませんが、だとすれば悪質です。
歴史上は、このような「悪質な」プロパガンダがたびたび用いられました。
中でもナチス党のヒトラー、そして宣伝相ゲッペルスによるそれは、その劇的な効果とともに有名です。
彼らの曰く
「宣伝は知性より感情に訴えろ」
「要点を絞り(短い言葉で)、最後の一人が理解できるまで繰り返せ」
「小さな嘘より大きな嘘を何度も繰り返せ(=嘘も100回繰り返せば真実となる)」
これらは、すばらしいほど、悪質なプロバガンダの本質を言い当てています。
私たちは、このような手法が絶大な効果を発揮することを、東京都知事選、アメリカ大統領選に続いて今度の兵庫県知事選で、目の当たりにしました。
「改革派の斎藤前知事が兵庫県の既存の支配勢力に挑戦していじめられている」「改革派対守旧派」という図式を描いたことが、彼らのプロパガンダの当初の成功でした。それに、いなむら市政への「チェリーピッキング」手法を用いた「こき下ろし」が続きます。
それに加えて、現実の選挙戦の場面では、現場での偶発的なもめごとにとどまらない、むき出しの暴力が登場しました。ヤジや批判をする者への制止や抗議ではなく、いきなり「殺したろか」「死ね」と言って胸倉をとるむき出しの暴力。これもナチス時代の「突撃隊」「親衛隊」を思わせます。街頭でのこのようなむき出しの暴力は、平穏な市民の多くに政治に関与することへの恐怖心を植え付ける効果があります。そうやって市民的良識を遠ざけておいて、政権を握りに行く。―まさにナチスがやったことです。
この手法の成功が無視できぬほどの普遍性を持ち始めていることが、民主主義の危機なのです。
それに対抗できるだけの、手段にとどまらず、政治思想を見出さなければなりません。
その作業にあたっては、他方でこの「プロパガンダ」という手法が、「権力」や「資金」、伝統的支配力を持たない反対派勢力にとって、有力な政治的手段であったし、今もそうだという事に着目しなければなりません。
反体制勢力であった者も、このような手法を使っていたし、今もともすれば使っている、という事を見逃してもいけないと思います。
ロシア革命を描いた「戦艦ポチョムキン」という映画で、弾圧を受けた民衆が階段から将棋倒しに落ちるシーンが描かれています。しかし、そのような事実があったという証拠はないそうです。
誰であれ、胸に手を当ててよく自らの発言や行動を振り返り、考えてから反撃に着手しましょう。
どのような結果になろうが、この選挙が、このようなえげつない選挙戦になった事自体が、民主主義の危機を示しているという事に変わりはありません。
昨日、斎藤、立花の応援者と目されるSNS上の投稿を指して「プロパガンダ」だ、と書きました。
このような言論と宣伝が政治の世界にはびこり、大きな力を発揮することへの危機感から、もう少し詳しく触れてみます。
ウィキペディアで調べてみました。(ネット批判をするのにネットかい!と突っ込まれそうですが・・)
すると、「プロパガンダ」の様々な種類や効果が詳しく書かれています。
まず、日本語訳です:宣伝戦、政治宣伝。
ちなみに、岩波の国語時時点では「宣伝」としかありません。英和辞典では「宣伝」に加えて「布教」(カトリック)とあります。
語源はラテン語のpropagaere(繁殖させる、種をまく)だそうです。
その多くの手法の中に「チェリーピッキング」という手法が示されていました。
「数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為」と説明されています。
昨日触れた「いなむら市政は公立幼稚園を減らした」という言説は、まさにこれに当てはまりますね。「公立保育園の減少」という事実のみを挙げて稲村市政が子育て支援に背を向けたという印象を与え、その印象を否定し得る「園児の減少」という事実は挙げないというやり方です。
この手法は、
「多くは意図的に行われるが、「確証バイアス」(自分の考えを支持する証拠だけに注目し反証を無視する傾向)」による意図せぬものもある。とありました。
わざわざ投稿するのだから意図的に違いありませんが、だとすれば悪質です。
歴史上は、このような「悪質な」プロパガンダがたびたび用いられました。
中でもナチス党のヒトラー、そして宣伝相ゲッペルスによるそれは、その劇的な効果とともに有名です。
彼らの曰く
「宣伝は知性より感情に訴えろ」
「要点を絞り(短い言葉で)、最後の一人が理解できるまで繰り返せ」
「小さな嘘より大きな嘘を何度も繰り返せ(=嘘も100回繰り返せば真実となる)」
これらは、すばらしいほど、悪質なプロバガンダの本質を言い当てています。
私たちは、このような手法が絶大な効果を発揮することを、東京都知事選、アメリカ大統領選に続いて今度の兵庫県知事選で、目の当たりにしました。
「改革派の斎藤前知事が兵庫県の既存の支配勢力に挑戦していじめられている」「改革派対守旧派」という図式を描いたことが、彼らのプロパガンダの当初の成功でした。それに、いなむら市政への「チェリーピッキング」手法を用いた「こき下ろし」が続きます。
それに加えて、現実の選挙戦の場面では、現場での偶発的なもめごとにとどまらない、むき出しの暴力が登場しました。ヤジや批判をする者への制止や抗議ではなく、いきなり「殺したろか」「死ね」と言って胸倉をとるむき出しの暴力。これもナチス時代の「突撃隊」「親衛隊」を思わせます。街頭でのこのようなむき出しの暴力は、平穏な市民の多くに政治に関与することへの恐怖心を植え付ける効果があります。そうやって市民的良識を遠ざけておいて、政権を握りに行く。―まさにナチスがやったことです。
この手法の成功が無視できぬほどの普遍性を持ち始めていることが、民主主義の危機なのです。
それに対抗できるだけの、手段にとどまらず、政治思想を見出さなければなりません。
その作業にあたっては、他方でこの「プロパガンダ」という手法が、「権力」や「資金」、伝統的支配力を持たない反対派勢力にとって、有力な政治的手段であったし、今もそうだという事に着目しなければなりません。
反体制勢力であった者も、このような手法を使っていたし、今もともすれば使っている、という事を見逃してもいけないと思います。
ロシア革命を描いた「戦艦ポチョムキン」という映画で、弾圧を受けた民衆が階段から将棋倒しに落ちるシーンが描かれています。しかし、そのような事実があったという証拠はないそうです。
誰であれ、胸に手を当ててよく自らの発言や行動を振り返り、考えてから反撃に着手しましょう。
昨日の文の訂正 ― 2024/11/16
「その心情にしたって」は
「その信条に従って」の間違いです。訂正します。
「その信条に従って」の間違いです。訂正します。
兵庫県知事選 自治体選挙の歴史を変えるかも ― 2024/11/15
兵庫県知事選挙がすごいことになってきました。県下22市の市長が、県知事選挙におけるひどい誹謗中傷への批判を表明するとともに、いなむら候補への支持を表明したのです。
稲村氏の支持を表明した首長の市名は、姫路市、尼崎市、西宮市、洲本市、伊丹市、相生市、加古川市、たつの市、赤穂市、宝塚市、三木市、高砂市、川西市、小野市、加西市、丹波篠山市、丹波市、南あわじ市、朝来市、淡路市、宍粟市、加東市、です。
確かに、今回の県知事選挙では、一部の集団による、選挙の根本的意義を踏みにじったふるまい、誰とも知れぬ人による、SNS上での候補者への誹謗中傷、など民主主義にとって憂うべき所業が蔓延しています。
しかし、それを非難することと、特定の候補者を応援するという事の間には明確な一線があります。今回の22市長の声明はその一線を越えています。マスコミも「異例」と評価しています。今回の知事選はよほどのことなのでしょう。
私も「よほどのこと」だと思います。
今回の兵庫県政の混乱は、民主主義についての様々な危機を孕んでいます。
一つ、前県知事が、自分の政治姿勢に異を唱え(内部告発し)た職員に対して、その当否を第三者に判断してもらうことなく、知事の権限をもって告発者探しと人事処分をしたこと。これは「公益通報保護法」を待つまでもなく、権力の座にあるものとしては、決してやってはいけないことです。権力の私的乱用です。批判に耳を傾けないどころか批判者を権力で弾圧することは民主主義の根幹の破壊です。これが前知事の最大の過ちなのです。そして彼はそのことについては謝るどころか正しかったと言っているのですから、彼が再選されたら、兵庫県はこのような違法状態を是とする自治体になってしまいます。
二つ目には、前知事が県議会の不信任決議によって失職して行われた県知事選挙で、今回の22市長の声明に言う「誹謗中傷」や暴力的言辞が蔓延し、民主主義選挙の基礎を覆す行為がはびこっていることです。
それは、ただの選挙妨害や、行き過ぎの域を超えて、「政策を言論で争って有権者の判断を受ける。」という公職選挙のルールの基礎を破壊しています。
一つは、某候補の「自分の当選ではなく斎藤候補の応援をするために立候補した」との言明です。選挙法では特定の候補者の応援はその候補者に許された宣伝手段でしかできません。ところが、この方法を使えば応援を受けた候補は選挙法で許された二倍の宣伝力を持つことになります。これは、法が想定していない卑怯な抜け道です。
そして二つ目は、主にSNS上で行われる誹謗中傷です。
例えば、「いなむら候補は、尼崎市長時代,公立幼稚園をつぶした(子育て支援に背を向けた)」という言説を、それを表す数字を付けてネット上に流す、という行為です。確かに稲村市政において公立幼稚園は減らされました。挙げられた数字も嘘ではありません。しかしその第一の原因は幼稚園児の減少にあります。にもかかわらず、その数字は示されないのです。その減少分を吸収するのに民間ではなく公立の幼稚園を減らしたのです。どちらにするか、つまり園児の減少に起因する幼稚園定員の削減を公立で受けるか民間で受けるかについては当時も論争がありました。しかし、これは方法の選択の問題であって、どちらの立場の人も子育て支援に背を向けていたわけではありません。なのに「いなむら候補は子育て支援に背を向けている」という印象を読んだ人に与えるのです。
これは、典型的な「プロパガンダ」の手法です。一面的な「事実」を挙げて、全体としての政策や、特定の集団などを批判する。歴史上ではナチスが用いたことで有名な手法です。ゲッペルスは「嘘も百回言えば大衆は信じる」とうそぶきましたが、まさにその手法です。
事はこうまとめられます。まず民主主義の基礎に触れる違反行為を確信犯としてやってのけた知事がいて、その知事が民主的手続きによって「罷免」されました。
その前知事は続く選挙に再度立候補しました。その選挙では全リーダーを支援するために民主主義的ルールを踏みにじった「手法の暴力」、「言論の暴力」、そして「実際の暴力」が所嫌わず振るわれています。
今回の22市長の声明は、その危機感にもとづくものであると思います。
「これは、公職選挙法違反だ」とのたもうた弁護士がいるようですが、法律を知らない弁護士というのは恐ろしいものですね。自治体の首長は政治家ですので、それぞれにその心情にしたって特定の候補者を応援することに何の制限もありません。それが共同の行為であっても同じです。
このような県政の危機、民主主義の危機に際して、住民に最も身近な自治体をあずかる首長として、民主主義の破壊を公言する人を阻止する手段はそれに反対する最有力候補を応援するしかないと考えることに不自然な点はありません。
それにしても、22もの首長の連名による特定の県知事選候補への応援の共同声明は自治体史上おそらく初めてでしょう。兵庫県が遭遇している県政民主主義の危機の深さに思いが至ります。他方で、おそらく政治的立場は違うであろう首長の皆さんの、共同声明に至る、自治と民主主義に対する姿勢の健全さ、健気さに感動しています。市民、県民として全力で応援したいと思います。
稲村氏の支持を表明した首長の市名は、姫路市、尼崎市、西宮市、洲本市、伊丹市、相生市、加古川市、たつの市、赤穂市、宝塚市、三木市、高砂市、川西市、小野市、加西市、丹波篠山市、丹波市、南あわじ市、朝来市、淡路市、宍粟市、加東市、です。
確かに、今回の県知事選挙では、一部の集団による、選挙の根本的意義を踏みにじったふるまい、誰とも知れぬ人による、SNS上での候補者への誹謗中傷、など民主主義にとって憂うべき所業が蔓延しています。
しかし、それを非難することと、特定の候補者を応援するという事の間には明確な一線があります。今回の22市長の声明はその一線を越えています。マスコミも「異例」と評価しています。今回の知事選はよほどのことなのでしょう。
私も「よほどのこと」だと思います。
今回の兵庫県政の混乱は、民主主義についての様々な危機を孕んでいます。
一つ、前県知事が、自分の政治姿勢に異を唱え(内部告発し)た職員に対して、その当否を第三者に判断してもらうことなく、知事の権限をもって告発者探しと人事処分をしたこと。これは「公益通報保護法」を待つまでもなく、権力の座にあるものとしては、決してやってはいけないことです。権力の私的乱用です。批判に耳を傾けないどころか批判者を権力で弾圧することは民主主義の根幹の破壊です。これが前知事の最大の過ちなのです。そして彼はそのことについては謝るどころか正しかったと言っているのですから、彼が再選されたら、兵庫県はこのような違法状態を是とする自治体になってしまいます。
二つ目には、前知事が県議会の不信任決議によって失職して行われた県知事選挙で、今回の22市長の声明に言う「誹謗中傷」や暴力的言辞が蔓延し、民主主義選挙の基礎を覆す行為がはびこっていることです。
それは、ただの選挙妨害や、行き過ぎの域を超えて、「政策を言論で争って有権者の判断を受ける。」という公職選挙のルールの基礎を破壊しています。
一つは、某候補の「自分の当選ではなく斎藤候補の応援をするために立候補した」との言明です。選挙法では特定の候補者の応援はその候補者に許された宣伝手段でしかできません。ところが、この方法を使えば応援を受けた候補は選挙法で許された二倍の宣伝力を持つことになります。これは、法が想定していない卑怯な抜け道です。
そして二つ目は、主にSNS上で行われる誹謗中傷です。
例えば、「いなむら候補は、尼崎市長時代,公立幼稚園をつぶした(子育て支援に背を向けた)」という言説を、それを表す数字を付けてネット上に流す、という行為です。確かに稲村市政において公立幼稚園は減らされました。挙げられた数字も嘘ではありません。しかしその第一の原因は幼稚園児の減少にあります。にもかかわらず、その数字は示されないのです。その減少分を吸収するのに民間ではなく公立の幼稚園を減らしたのです。どちらにするか、つまり園児の減少に起因する幼稚園定員の削減を公立で受けるか民間で受けるかについては当時も論争がありました。しかし、これは方法の選択の問題であって、どちらの立場の人も子育て支援に背を向けていたわけではありません。なのに「いなむら候補は子育て支援に背を向けている」という印象を読んだ人に与えるのです。
これは、典型的な「プロパガンダ」の手法です。一面的な「事実」を挙げて、全体としての政策や、特定の集団などを批判する。歴史上ではナチスが用いたことで有名な手法です。ゲッペルスは「嘘も百回言えば大衆は信じる」とうそぶきましたが、まさにその手法です。
事はこうまとめられます。まず民主主義の基礎に触れる違反行為を確信犯としてやってのけた知事がいて、その知事が民主的手続きによって「罷免」されました。
その前知事は続く選挙に再度立候補しました。その選挙では全リーダーを支援するために民主主義的ルールを踏みにじった「手法の暴力」、「言論の暴力」、そして「実際の暴力」が所嫌わず振るわれています。
今回の22市長の声明は、その危機感にもとづくものであると思います。
「これは、公職選挙法違反だ」とのたもうた弁護士がいるようですが、法律を知らない弁護士というのは恐ろしいものですね。自治体の首長は政治家ですので、それぞれにその心情にしたって特定の候補者を応援することに何の制限もありません。それが共同の行為であっても同じです。
このような県政の危機、民主主義の危機に際して、住民に最も身近な自治体をあずかる首長として、民主主義の破壊を公言する人を阻止する手段はそれに反対する最有力候補を応援するしかないと考えることに不自然な点はありません。
それにしても、22もの首長の連名による特定の県知事選候補への応援の共同声明は自治体史上おそらく初めてでしょう。兵庫県が遭遇している県政民主主義の危機の深さに思いが至ります。他方で、おそらく政治的立場は違うであろう首長の皆さんの、共同声明に至る、自治と民主主義に対する姿勢の健全さ、健気さに感動しています。市民、県民として全力で応援したいと思います。
兵庫県知事選挙 雑感 ― 2024/11/13
今日初めて「X」(旧ツィッター)を見たのですが、すごいことになっています。現時点ではいなむら候補に対する非難に満ち満ちているのですが、その内容が、12年間の稲村尼崎市政のマイナス面を誇張してあげつらうもので、数字や資料を挙げたもっともらしい提示の仕方で、呆れたり感心したりでした。
あのね、欠点や足りない面のない自治体政治があればお目にかかりたいものです。ある首長の自治体政治の評価は、その自治体がおかれた条件の下でプラスもマイナスを含めて、どれだけ可能で最適の方策をとったかによるのですよ。施政の欠点を挙げることは簡単です。欠点のない施政は存在しないのですから。それだけで政治を評価していては何も生みだしません。これを「言葉、評価の暴力」と私は言いたい。
阪神の桐敷は3勝しかしていないからだめな投手なのですか。防御率1点台の投手も何度か撃ち込まれた事があればだめ投手なのでしょうか?
事実の一面だけを取り上げて全体の評価とする。このような手法はデマゴーグがもっとも得意とするところです。
「それは事実であっても真実ではない」と有名なジャーナリストが言ったたことがあるそうですが、まさにそれです。
他方で、街頭宣伝の場ではむき出しの暴力が出現しました。街頭宣伝の場で、批判のヤジどころではなく「死ね。」「殺したろか。」などの無内容だが恐怖をあおる言辞が飛ぶようになったのです。
ナチの手法を読んできた私には「あれと同じだ」という恐怖心が生まれました。ナチス突撃隊の街頭での暴力と、ゲッペルスによるデマ宣伝(嘘も百回言えば大衆は信じる)。これがナチスの宣伝力の両輪であったと思っています。当時のドイツでは政党はそれぞれ暴力装置をもっていました。街頭でそれらが衝突する姿を見て、ドイツの大衆は政治に背を向けなかったでしょうか。それが一番恐ろしいことです。
いなむら選挙はその世界にはまり込むことなく、民主主義の正道を歩み続けましょう。
今回の知事選では、前知事による「権力の私的乱用」を許すか許さないかが県民に問われているのです。言論、実際の暴力か、論争、対話の民主主義かが問われているのです。
選べばその責任は私たちにあります。もう「だまされた」は通用しません。
あのね、欠点や足りない面のない自治体政治があればお目にかかりたいものです。ある首長の自治体政治の評価は、その自治体がおかれた条件の下でプラスもマイナスを含めて、どれだけ可能で最適の方策をとったかによるのですよ。施政の欠点を挙げることは簡単です。欠点のない施政は存在しないのですから。それだけで政治を評価していては何も生みだしません。これを「言葉、評価の暴力」と私は言いたい。
阪神の桐敷は3勝しかしていないからだめな投手なのですか。防御率1点台の投手も何度か撃ち込まれた事があればだめ投手なのでしょうか?
事実の一面だけを取り上げて全体の評価とする。このような手法はデマゴーグがもっとも得意とするところです。
「それは事実であっても真実ではない」と有名なジャーナリストが言ったたことがあるそうですが、まさにそれです。
他方で、街頭宣伝の場ではむき出しの暴力が出現しました。街頭宣伝の場で、批判のヤジどころではなく「死ね。」「殺したろか。」などの無内容だが恐怖をあおる言辞が飛ぶようになったのです。
ナチの手法を読んできた私には「あれと同じだ」という恐怖心が生まれました。ナチス突撃隊の街頭での暴力と、ゲッペルスによるデマ宣伝(嘘も百回言えば大衆は信じる)。これがナチスの宣伝力の両輪であったと思っています。当時のドイツでは政党はそれぞれ暴力装置をもっていました。街頭でそれらが衝突する姿を見て、ドイツの大衆は政治に背を向けなかったでしょうか。それが一番恐ろしいことです。
いなむら選挙はその世界にはまり込むことなく、民主主義の正道を歩み続けましょう。
今回の知事選では、前知事による「権力の私的乱用」を許すか許さないかが県民に問われているのです。言論、実際の暴力か、論争、対話の民主主義かが問われているのです。
選べばその責任は私たちにあります。もう「だまされた」は通用しません。
いなむら和美はげます行動呼びかけ ― 2024/10/15
衆院選以降の行動計画を呼びかけます。奮ってご参加ください.
( )内の責任者が空欄のところは未定です。追って知らせます。
28日(月)
〇各駅一斉朝ビラまき 7時30分から約1時間
阪急武庫之荘(責任者 一ノ瀬) 阪急塚口(弘川) JR立花(丸尾) JR尼崎(廣畑) 阪神尼崎(迫田)
〇いなむら和美をはげます集い 500人の会場です。阪神間の他の町からも参加してもらいましょう。
18時30分開会 尼崎市中小企業センター
30日(水)
〇各駅一斉夕方ビラまき
阪急武庫之荘(責任者 一ノ瀬) 阪急塚口(責任者 弘川) JR立花( ) JR尼崎( ) 阪神尼崎(迫田)
阪神武庫川(酒井)
31日(木)知事選告示 ポスター貼りの仕事が回ってきたら連絡します。
本番中については追ってお知らせします。
( )内の責任者が空欄のところは未定です。追って知らせます。
28日(月)
〇各駅一斉朝ビラまき 7時30分から約1時間
阪急武庫之荘(責任者 一ノ瀬) 阪急塚口(弘川) JR立花(丸尾) JR尼崎(廣畑) 阪神尼崎(迫田)
〇いなむら和美をはげます集い 500人の会場です。阪神間の他の町からも参加してもらいましょう。
18時30分開会 尼崎市中小企業センター
30日(水)
〇各駅一斉夕方ビラまき
阪急武庫之荘(責任者 一ノ瀬) 阪急塚口(責任者 弘川) JR立花( ) JR尼崎( ) 阪神尼崎(迫田)
阪神武庫川(酒井)
31日(木)知事選告示 ポスター貼りの仕事が回ってきたら連絡します。
本番中については追ってお知らせします。
いよいよ2度目の上映です。 ― 2023/07/03
ドキュメンタリー映画「ボストン市庁舎」を見て自治を考える会、7月6日、今週の木曜日に迫りました。この異様に長い(274分)ドキュメンタリー映画、幾度も紹介しましたが、地方自治に携わったり、関心や興味をお持ちの方は必見です。フレデリック・ワイズマン監督がボストン市役所の仕事ぶりを通じて「考えろ」と迫ります。監督はあえて何も主張しません。アイルランド系のウォルシュ市長と市民との関係を縦軸に、ただ淡々と市役所の様々な場面を切り取って見せてくれるだけです。
にもかかわらず、「市役所の仕事」「市民への奉仕」「人権や、多様性の尊重」などなど、いろいろ考えさせられるのです。
長丁場なので昼食休憩をはさみます。10時から4時くらいまでかかるかと思います。その覚悟でおいでください。とはいえ、もちろん途中参加、退出はご自由に。
会場費だけ割り勘でご負担願います。
7月6日(木)10時から16時頃
小田北生涯学習プラザ 学習室4 「ボストン市庁舎を考える会」で表示します。
次の週の同じ木曜日には同じフレデリック・ワイズマン監督の「ニューヨーク公共図書館」を見ます。これも205分を超える長編です。
「図書館」「社会教育」「歴史資料・史料」など、これも考えさせられます。
7月13日(木)10時から15時頃まで
小田北生涯学習プラザ 学習室2 「ニューヨーク図書館」で表示します。
にもかかわらず、「市役所の仕事」「市民への奉仕」「人権や、多様性の尊重」などなど、いろいろ考えさせられるのです。
長丁場なので昼食休憩をはさみます。10時から4時くらいまでかかるかと思います。その覚悟でおいでください。とはいえ、もちろん途中参加、退出はご自由に。
会場費だけ割り勘でご負担願います。
7月6日(木)10時から16時頃
小田北生涯学習プラザ 学習室4 「ボストン市庁舎を考える会」で表示します。
次の週の同じ木曜日には同じフレデリック・ワイズマン監督の「ニューヨーク公共図書館」を見ます。これも205分を超える長編です。
「図書館」「社会教育」「歴史資料・史料」など、これも考えさせられます。
7月13日(木)10時から15時頃まで
小田北生涯学習プラザ 学習室2 「ニューヨーク図書館」で表示します。
ワイズマン監督の2本のとても長いドキュメンタリー、「ボストン市庁舎」と「ニューヨーク公共図書館」一日かけてみる値打ちありです ― 2023/05/20
映画「ボストン市庁舎」先日の上映を見逃した方が何人かおられます。また同じフレデリック・ワイズマン監督の「ニューヨーク公共図書館」というドキュメンタリー作品もなかなか刺激的なのです。
そこで、この2本を見る会をやろうと思います。酒井の個人的催しです。
それぞれ次の日程です。
費用はいただきません、会場費を分担していただきます。
第1回 「ボストン市庁舎」(前後編あわせて4時間半あります)
7月6日(木)午前10時から午後4時まで 午前第一部 昼休み有り 午後第二部
会場 尼崎市小田北生涯学習プラザ 学習室4
押し(お勧め)の言葉
「自治」や「市民参加」や「多様性」。自治体において今や当たり前のように言われるこれらの理想が、このドキュメンタリーに描かれるボストン市役所の様々な営みの中に、まだ十分ではないけれど手触りを持った現実として切り取られています。
「これこそが自治だ」「これが自治体の仕事だ」と思わせる説得力がありました。そして、その場面場面が、私たちが日ごろ接しているこの国の自治体の営みとそんなにかけ離れたものではないことに希望が持てました。私たちの自治体もまだ捨てたものではないのかな。
第2回 「ニューヨーク公共図書館」(前後編あわせて3時間半)
7月13日(木)午前10時から午後3時まで 午前第一部 昼休み有り 午後第二部
会場 尼崎市小田北生涯学習プラザ 学習室1
押し(お勧め)の言葉
前にも書きましたが、この映画、冒頭いきなり、宮殿のような建物のロビーでリチャード・ドーキンスが公開講演をしているシーンから始まります。「利己的な遺伝子」で有名なイギリスの動物行動学者です。キリスト教の天地創造説がいまだに結構広く信じられているアメリカで、図書館の社会 教育機関としての矜持が感じられる公開講演会だと思います。
このドキュメンタリーからはニューヨーク公共図書館の仕事の深さと広がりが、日本の図書館 とはけた違いであることがわかります。
特に、日ごろ尼崎の図書館政策の貧困に不平を鳴らしている私からすると、是非多くの人に知 ってもらって一緒に図書館政策の抜本的改革を求めていきたいと思っています。
敵基地攻撃能力と専守防衛 ― 2023/02/08
「敵基地攻撃能力」と「専守防衛」
2023年2月8日
日本の政府が「敵基地攻撃能力」と大軍拡を言いだしました。
先日の朝日新聞に航空自衛隊の元航空団指令 林 吉永さんのインタビューがありました。
当時彼は、ソ連の領空侵犯機に対してスクランブル出動をする部下に、
「引き金を引くな」
「相手に先に撃たれて脱出することは批判をされるし恥辱でもあるだろうが、その覚悟と忍耐によって日本の正義が保障されるのであればパイロットは真のヒーローたりうる」と指導していたそうです。これは自衛隊の方針ではなく、処分覚悟であったと言います。
ここでは「撃たれて脱出」と言っていますが、「撃たれて死ぬ」ことも当然意味していたはずです。
またこうも言っています。
「専守防衛の短所は自国民の損害や犠牲が避けられないことです。専守防衛とは、戦闘が自国領域内で行われることを意味するからであり、そもそも特別の覚悟を要する戦略なのです。他方、長所もあります。自衛のための戦いであることが理解されやすく、戦闘の正当性が担保されるため、国際的な指示や支援を得やすいことです。」
ウクライナ戦争については、こう語りました。
「ロシアによる侵略を自国の深くまで受けながらロシア本土を攻撃することに抑制的な今のウクライナは、まさに専守防衛的な戦いをしています。自らの闘いの正しさを示すことで国際社会の支援を得ようと努める現実的で重い決断が見えます。」
米ソ冷戦当時の日本の軍事担当者の重い思考が伝わってきます。
政府は、「敵基地攻撃能力」「反撃能力」というのは、より長距離を飛ぶミサイルを装備したり、偵察能力を向上させたり、武器の備蓄を増やしたり、という、兵器や軍事的能力の問題であるかのように国民には説明しています。
その上で「専守防衛の方針は変わらない」とも言っています。しかし、ここに詭弁があります。
林、元指令が言うように「専守防衛」とは、相手より先に撃たないこと、他国領土で戦わないこと、を意味しているのです。それは相手より先に自分たちの側に犠牲や損害が出ることを覚悟した戦略なのです。先に撃たせないための「敵基地攻撃」は「専守防衛」とは異なるものです。
そもそも兵器は使い方によって盾にも鉾になるものです。現在の自衛隊の兵器でもやろうと思えば外国領土を攻撃できないわけではありません。「専守防衛」とは、その兵器の使い方について「先制攻撃しない」「自国領内に限る」という縛りをかけたものだったのです。
政府がわざわざ「敵基地攻撃能力を保有する」と言いだしたのは、この国の基本的防衛戦略を「専守防衛」から変更するということに他なりません。
軍事費の倍増や兵器の能力向上は、もちろん許すわけにはいきません。しかし同時にその裏に隠された基本的防衛戦略の変更を見逃さずに暴露しないといけません。
繰り返します。政府は、「専守防衛」をやめて、先制攻撃や国外での戦闘を可能にする方向に、戦争についてのこの国の基本的考え方を変えようとしているのです。
武力行使の正当性を確立するために、先に攻撃され自国に被害と犠牲がでることを覚悟のうえで、「専守防衛」という戦略を守ってきた林 元指令のような自衛隊幹部がいた時代は終わってしまったかも知れません。
実は、「集団的安全保障」にかじを切った時点で、すでに「専守防衛」は捨て去られ、この国の防衛戦略は変更されていた、ということなのでしょう。
今は、ウクライナ戦争と中国の拡大への恐怖心に付け込んで、その新しい戦略思想で国民の説得を試みているということでしょう。それも「やられる前にやってしまえ」という極めて低劣な、恐怖への反射を煽る形で。
我々は、今一度「専守防衛」という考え方の重要性を見直さなくてはならないのではないでしょうか。軍事力の不保持という理想は維持したままでも「専守防衛」の意義を語る勇気がいるのではないでしょうか。
戦争や安全保障の議論の中に「正当性」や「正義」が語られ、それを求める「国際世論」が大きな力として位置付けられる、そういう時代に私たちはようやくたどり着きかけていることを忘れてはいけません。その意味でウクライナの闘い方が、純軍事的には不合理ともいえるくらいロシア領内への攻撃を抑制している事にも思いを致すべきです。
もちろん、私たちの国が国際社会に向けて「専守防衛」の正当性を主張するためには、相手に攻撃させないだけの、国としての「正義」と「正当性」を、近隣国との過去の関係の反省、謝罪の上に確立しておくことが必要であることはいうまでもありません。
2023年2月8日
日本の政府が「敵基地攻撃能力」と大軍拡を言いだしました。
先日の朝日新聞に航空自衛隊の元航空団指令 林 吉永さんのインタビューがありました。
当時彼は、ソ連の領空侵犯機に対してスクランブル出動をする部下に、
「引き金を引くな」
「相手に先に撃たれて脱出することは批判をされるし恥辱でもあるだろうが、その覚悟と忍耐によって日本の正義が保障されるのであればパイロットは真のヒーローたりうる」と指導していたそうです。これは自衛隊の方針ではなく、処分覚悟であったと言います。
ここでは「撃たれて脱出」と言っていますが、「撃たれて死ぬ」ことも当然意味していたはずです。
またこうも言っています。
「専守防衛の短所は自国民の損害や犠牲が避けられないことです。専守防衛とは、戦闘が自国領域内で行われることを意味するからであり、そもそも特別の覚悟を要する戦略なのです。他方、長所もあります。自衛のための戦いであることが理解されやすく、戦闘の正当性が担保されるため、国際的な指示や支援を得やすいことです。」
ウクライナ戦争については、こう語りました。
「ロシアによる侵略を自国の深くまで受けながらロシア本土を攻撃することに抑制的な今のウクライナは、まさに専守防衛的な戦いをしています。自らの闘いの正しさを示すことで国際社会の支援を得ようと努める現実的で重い決断が見えます。」
米ソ冷戦当時の日本の軍事担当者の重い思考が伝わってきます。
政府は、「敵基地攻撃能力」「反撃能力」というのは、より長距離を飛ぶミサイルを装備したり、偵察能力を向上させたり、武器の備蓄を増やしたり、という、兵器や軍事的能力の問題であるかのように国民には説明しています。
その上で「専守防衛の方針は変わらない」とも言っています。しかし、ここに詭弁があります。
林、元指令が言うように「専守防衛」とは、相手より先に撃たないこと、他国領土で戦わないこと、を意味しているのです。それは相手より先に自分たちの側に犠牲や損害が出ることを覚悟した戦略なのです。先に撃たせないための「敵基地攻撃」は「専守防衛」とは異なるものです。
そもそも兵器は使い方によって盾にも鉾になるものです。現在の自衛隊の兵器でもやろうと思えば外国領土を攻撃できないわけではありません。「専守防衛」とは、その兵器の使い方について「先制攻撃しない」「自国領内に限る」という縛りをかけたものだったのです。
政府がわざわざ「敵基地攻撃能力を保有する」と言いだしたのは、この国の基本的防衛戦略を「専守防衛」から変更するということに他なりません。
軍事費の倍増や兵器の能力向上は、もちろん許すわけにはいきません。しかし同時にその裏に隠された基本的防衛戦略の変更を見逃さずに暴露しないといけません。
繰り返します。政府は、「専守防衛」をやめて、先制攻撃や国外での戦闘を可能にする方向に、戦争についてのこの国の基本的考え方を変えようとしているのです。
武力行使の正当性を確立するために、先に攻撃され自国に被害と犠牲がでることを覚悟のうえで、「専守防衛」という戦略を守ってきた林 元指令のような自衛隊幹部がいた時代は終わってしまったかも知れません。
実は、「集団的安全保障」にかじを切った時点で、すでに「専守防衛」は捨て去られ、この国の防衛戦略は変更されていた、ということなのでしょう。
今は、ウクライナ戦争と中国の拡大への恐怖心に付け込んで、その新しい戦略思想で国民の説得を試みているということでしょう。それも「やられる前にやってしまえ」という極めて低劣な、恐怖への反射を煽る形で。
我々は、今一度「専守防衛」という考え方の重要性を見直さなくてはならないのではないでしょうか。軍事力の不保持という理想は維持したままでも「専守防衛」の意義を語る勇気がいるのではないでしょうか。
戦争や安全保障の議論の中に「正当性」や「正義」が語られ、それを求める「国際世論」が大きな力として位置付けられる、そういう時代に私たちはようやくたどり着きかけていることを忘れてはいけません。その意味でウクライナの闘い方が、純軍事的には不合理ともいえるくらいロシア領内への攻撃を抑制している事にも思いを致すべきです。
もちろん、私たちの国が国際社会に向けて「専守防衛」の正当性を主張するためには、相手に攻撃させないだけの、国としての「正義」と「正当性」を、近隣国との過去の関係の反省、謝罪の上に確立しておくことが必要であることはいうまでもありません。