「ロシアのウクライナ侵攻反対」と言ったら文句言われた。2022/03/14

「ロシアはウクライナ侵攻をやめろ」と言ったら左翼仲間から文句がでました

「ロシアによるウクライナ侵攻反対」と声を上げると(FBに書いたのと、街頭にゼッケンをもって立っただけですが)、「酒井さん、何やら批判されているよ」と教えてくれる人がありました。
 「何かまずいことを言ったかしら」と不安になっていろいろ聞きまわったり、調べたりすると、その批判が真面目なものだということがわかって安心しました。しかし、真面目なものであるだけ、真っ向から反論することが礼儀だと思いますので、頑張ります。
 
 まず、批判の中身です。
 1 ロシアの侵攻を非難するのなら、アメリカやNATOの拡大戦略をも取り上げ、同時に避難するのでなければ問題を見誤る。
 2 同時に、ウクライナ国家によるロシア系住民への迫害も取り上げるべきだ。ゼレンスキー大統領も右派、大衆迎合的傾向を持っているのだ。
 3 ウクライナには極端な民族主義者、ネオナチと言えるような勢力もおり、それらへの批判も必要だ。
 私の知る限り、このくらいの問題指摘だったと思います。
 
 まずは、多くの知識人の背景説明や解説を紹介していただいたことに感謝します。私がウクライナについて知っていた事と言えば、キエフ公国からソ連時代のなかなか複雑そうな民族対立や抑圧迫害の歴史を少し、と中国が買ったワリャーグという名の航空母艦の下の持ち主がウクライナだったことくらいでした。ああ、あと、「クリミア半島」「セヴァストポリ」など世界史上結節点となった地名たちくらいです。もう一つ、これは思い違いだったのですが「レッドオクトーバーを追え」という小説の主人公-ソ連の最新鋭潜水艦を指揮して亡命をはかるソ連の艦長-の亡命の動機が、ウクライナのロシアに対する民族的恨みだったという話。これはその艦長の出自がリトアニア(これも自信がありません、バルト3国です)だったので思い違いでした。でもソ連の民族問題の一つであることには間違いありません。
もう一つ後で知ったのですが、ネタになるかも知れない話です。ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」という映画で第二次大戦にイタリア兵として従軍した彼女の夫が雪の中敗退する舞台となり、映画の主題ともいえるひまわり畑があったのがウクライナだったそうです。その話があってから私の周りの仲間が急に「ひまわり」のテーマ曲を聴き口ずさみだしたのです。

 それはさておき、私の反論です。
A 「どんな喧嘩、戦争にも互いの言い分はある。」ということです。これらの指摘は、どれも、それに対応する事実があるのでしょう。勉強になりました。
しかし、これらの指摘の全ては「プーチンも挙げている」戦争の「大義」でもあります。それらを示唆して「侵攻反対」の主張に「それだけを言っていてはいけないよ」と「諭す」ことにどんな意義があるのでしょう。

B 1の「NATOに加盟するかどうか」はウクライナの内政問題ではないですか? アメリカや西欧諸国が不当な工作でNATO加盟をそそのかしたり、強要したりしているとしても
それはそれで批判の対象ですが、最終的にはウクライナの国が決めるべきことです。
「ウクライナがNATOに入るのは我が国の安全にかかわる」というロシアの主張は正当なのですか? 
一世紀前の我が国も同じ主張をしていましたね。125年前には「朝鮮がロシアの勢力圏に入ったら我が国は危機だ」と言って日露戦争になりました(時系列的には、「しかけ」ました)。90年前には「ソ連との間に緩衝地帯が必要」との本音の下に中国東北区を軍事支配しました。
「隣国が『敵対的になる』ことは嫌だ」「敵対勢力との間に緩衝地帯が必要」「したがってわが勢力圏はもっと広がらなくてはいけない」という論理は、一世紀前に私たちの国がおちいり、行く道を誤った、その原因ではなかったでしょうか。
あの時の我が国にもそれなりの言い分はありました。「満州事変」を調査した国際連盟のリットン調査団でさえ、日本と中国、双方の非を認めていたのです。
 
 一世紀前もそうですが、私たちが経験している現代史で話しましょう。アメリカのアフガニスタン侵攻はどうですか?「9・11の首謀者ビンラディンをやっつける。テロの根を断つ」ということが、アメリカが掲げた戦争の「大義」でした。それを認めずに私たちはアメリカを非難しましたよね。今回なぜロシアを「一方的に非難」してはいけないのですか?

 二度の世界大戦を経て、少なくとも現代では「自衛」か「人道」以外の目的を掲げた武力行使は、世界中の非難を浴びるようになりました。昔は違ったのですよ。戦争は、その動機は領土拡張であろうがなんであろうが、恰も正々堂々の決闘であるかのように演出されていたのです。二度の世界大戦でその認識は変わりました
 現代では、すべての武力行使は「自衛か人道」の大義を掲げて行なわれます。古来言われた「『無名の(大義名分なき)師(軍事)』はおこしてはならない」の「名」は、現代では「自衛と人道」になったのです。

 今回のロシアのウクライナ侵攻は「自衛、人道」という名分のない「無名の師」なのです。
これは、一切の保留抜きに非難、糾弾されるべきことではないですか。
ウクライナに極右勢力がはびこっていようが、少数民族が抑圧されていようが、一つの国が武力でそれに介入していいという理由にはなりません。それはウクライナの内政問題であり、戦争以外の手段で糾されるべき事です。それを口実に軍事的に攻め込むことを許せば、まだ世界中に民族問題、差別、迫害がはびこる中で、戦争の種は尽きないということになりませんか。
ユーゴスラビアが内戦状態になった時、当時ドイツの連立政権に加わっていた「ドイツ緑の党」は大会で、コソボへの爆撃をめぐって生卵や腐ったトマトが飛び交う大論争を展開したと聞きます。「人道上やむをえない」という党指導部が激しい批判を浴びたようです。
「人道上必要」という理由でさえ、今は厳しい批判を浴びなくてはならないのです。

しかし戦争はなくなりません。
第二次世界大戦の始まりはナチスドイツのポーランド侵攻であった事になっています。その一年前にチェコスロバキアに対してドイツがズデーテン地方の割譲を要求したとき、イギリスのチェンバレン首相は仲裁に入ってチェコに割譲を認めさせました。話し合いによる戦争の回避です。しかし、それに味を占めたドイツがポーランドに攻め込んだので、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。いわゆる集団的自衛権です。結局、話し合いと妥協でも戦争を避けることはできませんでした。
今のウクライナ戦争ととても良く似ています。結局、今もあの時と同じく戦争を避ける手段はないのでしょうか。

そうは思いたくありません。

現在、私たちが持てる希望があるとすればそれは、世界中に張り巡らされた情報ネットワークです。これはこの戦争で際立って浮かび上がりました。今、私たちはほとんど現在進行形で、断片的とはいえかなり多面的な戦争情報に接しています。だから、それに反応して「戦争は止めろ」の声を上げることができるチャンスを享受しています。ベトナム戦争がその始まりだったかも知れません。しかし今私たちが接している情報の量と質は比較にならないでしょう。
第一次、第二次世界大戦当時、それはありませんでした。人々は各国の政府とその統制下にあったメディアの支配下におかれていました。特に日本やドイツでは。
 情報が入って、人々が声を上げる。デモをする。情報統制の厳しい戦争当事国でさえそれが起きている。世界中の人々が戦争に反対し、それを表現する意思を持っている。これは希望です。「世界世論」とでもいうべきものが、初めて本当に力を発揮するかも知れないのです。「世界世論」はもちろん国境を越えます。
その基準は、今のところ「自衛と人道以外の目的の戦争は許されない」「自衛、人道の目的にしてもそれは厳格に判定される。口実にすることは許されない」でしょう。
それはもはや軍事や交戦権の領域にはなく、国際警察機能の世界に入るのでしょう。国際連合が掲げた「理想」そのものです。

もう一つ。
今回の出来事は、図らずも「核兵器を持った国が不当に他国に侵攻しても、軍事力をもってそれを止めることはできない」ということをあきらかにしました。かつてアメリカやソ連はその不当な行為をやってきたのです。アメリカの行為を相手国であるソ連やロシアは不満でも黙って見ているしかなかったこの半世紀だったのです。
そのアメリカが、屈辱的にもロシアの侵攻をなすすべもなくみています。どんな国益上の理由があるのか知りませんが、世界中の人々の前にさらされているこの姿は、かつてのアメリカならば耐えられないことであったでしょう。そのアメリカが言います。「どんな理由があるにせよ他国に武力で攻め込むことは許されない」しかも、だからと言ってそれに武力で反撃することもしない、のです。
これは、軍事的には大変正しい判断だと思います。どれほどロシアが悪かろうが、ヨーロッパから全世界に核戦争を拡げる選択はできないでしょう。アメリカやNATOでは政治指導部より軍部の方がこの点では冷静で現実的なのでしょう。
アメリカがこういう選択をしたことは、実は希望の一つです。その意図にかかわりなくアメリカは「正義の戦争」「侵略に反対する戦争」をさえ選択しなかったのです。そしてそれを、「おじけづいたからではなく、それが正しいから選んだ」と言わざるを得ないのです。自らがこの一世紀世界中でやってきたことを「棚に上げて」です。
それは、新たな世界の正義がその萌芽を見せたとは言えないでしょうか?

「いかなる理由であれ、戦争を仕掛けてはいけない」「仕掛けた国や勢力は世界中から『有効な』糾弾を受ける」アメリカがそう言って、しかし戦争はせずにいるのです。

私は今、ウクライナの普通の人々の抵抗精神とともに在りたいと思います。逮捕覚悟でデモに出ているロシアの人々の正義感と共感することができます。世界中の侵攻を許さない声を上げ、また心に思う人々と共に歩みたいと思います。
それは、「ロシアはウクライナ侵攻をやめろ」の声を上げ、少なくとも心に思い、できる形であらわすことではないでしょうか。それ以外にできることは思い浮かびませんし、ほかに希望はありません。
国連軍で止めることは可能性がありませんし、本意ではありません。義勇軍で止めるという荒唐無稽なことも考えられません。
ロシアと戦うために銃を抱いているウクライナの人々に、民族主義やネオナチをどうこうしろと言っている暇もありません。それは、ロシアが軍を引いた後でやりましょう。

もう一度、繰り返します。どんな喧嘩にも、お互い言い分はあるものです。しかしまずは先に手を出した方や、強い方からたしなめるものでしょう?仲裁や正邪の判定はそのあとでしょう。違いますか?

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