集団的自衛権の閣議決定に対して2015/06/19

 安保法制がいよいよ山場です。昨年提案した集団的自衛権閣議決定に対する意見書案の提案趣旨説明です。

意見書案 第5号「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定の撤回等を求める意見書」について提案理由をご説明申し上げます。

緑のかけはし  酒井 一

○ 今年は、第一次世界大戦開始からちょうど100年目にあたります。第一次世界大戦はその犠牲の大きさへの反省から、戦争そのものを国際法上の犯罪であるとする考え方が大きな流れとなったことで、戦争の歴史に画期的転換をもたらしました。
 同時に、バルカン半島で起こった小さな紛争が、同盟関係の複雑な連動で、どの国も積極的には望まぬままに大戦争に発展した(戦争によろめき入った)事例として確定的な歴史的解明ができず、今も研究対象となっているのです。
安倍内閣が集団的自衛権を容認する理由として挙げる安全保障環境の変化。それが起こっている日本を含む東アジアの情勢が、いま国際社会から、現代のバルカン半島に擬されていることに強い不安感を覚えるのは私だけでしょうか?

 さて、その後も、第二次世界大戦など数々の戦争の惨禍を通じて、戦争を違法とする国際法は次第に確かなものとなっていきました。
現在の国際法においては、かつては国家の権利として認められていた、国家間の対立紛争を解決する手段としての交戦権は否定されています。戦争が容認されるのは自衛戦争のみということになったのです。

○ 国連や世界の安全保障についての考え方の潮流は次のような方向に向かっています。 
  侵略や、不法な武力攻撃に対しては、できる限り国連の枠組みにおいて対処する。
  攻撃を受けた国がどの国であれ、各国は、国連の枠組みが動き出すまでの間、当該国の要請を前提に、侵略や攻撃排除の必要に応じて集団的自衛権を行使する。

要は「暴力による侵害はそれが他者へのものであっても黙って見過ごさない」という人間社会の倫理(少なくとも理想)を国際社会へも広げようというものです。
 
○ 集団的自衛権への支持の底流にはこのような国際的な安全保障の目指す方向、つまり国連の警察機能が発揮されるという理想的形態への共感があるようにも思えます。
しかし、はたして、今回安倍内閣が憲法解釈を変更して容認しようとしている集団的自衛権とはこのような理想に向かうものなのでしょうか?

○ 国連発足以降、集団的自衛権という概念が使われた事例は、残念ながら乱用の歴史でした。自衛とは言いがたい軍事行動の隠れ蓑にされてきた例が多いのです。しかも集団的自衛権を掲げて軍事力を行使した国は米英ソ仏の4大国だけです。どれも大国の権益が主な動機であると思われる例ばかりです。
 「集団的自衛権」という言葉は「他者への侵略を許さない」という美談とは程遠い実態を持っています。
ベトナム、グレナダ、ニカラグア(における米)、イエメン(における英)、ハンガリー、チェコ、アフガニスタン(におけるソ連)、チャド(における仏)、そして最近のウクライナ(におけるロシア)

○ 安倍内閣が集団的自衛権を必要とするケースとして挙げる事例を見てみます
○日本人の乗った船が攻撃を受けた時。
邦人の保護は個別的自衛権の範囲であろうと考えます。
○PKOなどの際の駆けつけ警護。
法的には国連警察機能の中での相互支援として位置づけられるべきもので、集団的自衛権に法的根拠を求めるべきものではありません。
○アメリカを狙った弾道ミサイル。
  弾道ミサイルを撃ち落とすという神業は、ほぼ不可能と言われています。たとえ可能だとしても周到な準備が必要で、自衛隊がたまたまその近くにいるからと言って抜き打ちで撃ち落とせるようなものではありますまい。
たまたま撃ち落とせるチャンスに巡り合った場合自衛艦の艦長はそれこそ緊急避難、人道的超法規的措置で対応するかもしれません。しかし、それには集団的自衛権は必要なく、あらかじめ憲法解釈を変更する口実にはなりません。

 総じて安倍内閣が国民に示したわかりやすそうな事例は、集団的自衛権を用いなければならないケースとしては極めて根拠が薄弱、と言わざるを得ません。

○ さらに、諸発言を考慮すると集団的自衛権はアメリカが対象と考えられるのですが、これは「すべての国が助け合いの対象となるべき」だという国際的な安全保障の目指す方向に反します。それとも「世界中どこでも侵略を受けた国は助けに行く」と言うのでしょうか。平和的手段での支援の方が普遍的で効果的だと思うのですが。
 
○ しかも、そのアメリカが世界中で行っている軍事行動には国際的な安全保障の目指す方向には沿わぬものも数多くあります。

○ さらに、国際社会はむき出しの国家利害の相克の場です。アメリカに協力しておけば守ってもらえる。という単純な発想は無力なばかりか、一国の外交をつかさどる首脳の発想としては犯罪的ですらあります。

○ 日本は、軍事力行使の抑制、平和的貢献の努力によって高い国際的評価を受けてきました。日本国憲法9条(アーティクル9)に対する世界的評価は高いのです。それは条文そのものに加えて、それを根拠に実際に軍事行動が抑制されてきたことによります。60年以上軍事行動をとっていない主要国はほかに無いのです。
そして、それこそがわが国の安全保障にも大きく貢献してきたのです。

○ 国際的平和活動においても日本のこの実績への信頼は大きな力となっています。

○ それを放棄するリスクはきわめて高いといわねばなりません。米軍と一緒に戦うことに、そのリスクを上回る利益はありません。外交政策的にも国益に反するのです。

○ そもそも、武力は使わぬためにあるのです。軍事力による安全保障策は抑制的限定的に用いるように制度設計しなくてはならないのです。
 憲法9条の解釈との関係で言うと、軍事力の発動をどれだけ抑制するかという課題こそが、ときの政権に課せられているのであって、それを拡大の方向で解釈しなおすことは戦争の廃絶を目標とする憲法の精神に反することで、時々の政権には許されていないと言うべきです。

○ 護憲運動の象徴であった土井たか子さんが無くなりました。しかし、わたしたちは憲法9条の理念までも消し去るわけにはいきません。

○ さらに、消し去ってはいけないものの中には、「戦をもてあそんではいかん」との思いを抱いて、9条の理想主義的側面と現実との折り合いをつけながらこれまで運用してきた先人たちの努力の積み重ねとしての憲法解釈、もあるということを、その先人たちの後輩である安倍首相とその内閣に伝えることは私たちの義務であると考えます。

○ 私たちの携わる政治の場は地方自治体です。しかし地方自治体と言えども、平和を前提にしなければ、すべての施策が成り立たないのですから。