村井雅清さん勉強会 「自助、共助、公助」論2021/10/09

 村井雅清さんのボランティア論、「自助、共助、公助」論の会、とても刺激的な議論になりました。

 何しろ参加者は、阪神大震災当時、被災地で、それこそ災害救援ボランティアの先駆けとなった錚々たる面々。村井雅清さん:被災地NGO共同センター代表は言うに及ばず、それぞれのメンバーの当時の活躍場所を挙げてみると、都市生活地域復興センター、神戸大震災ボランティアセンター、尼崎引っ越しボランティアーマイム・マイム、阪神共同福祉会、神戸大生協・・・。
 今、これだけの「同窓会」はそう簡単にできることではありません。ともすれば「同窓会」に陥りつつも、様々な意見が飛び交いました。

 それぞれの意見をすべて汲み取ることはできませんが、私なりに議論の中からつかんだことを記します。
 
 村井さんによると、「自助、共助、公助」は、もともとは阪神大震災当時、貝原兵庫県知事が「震災で被災者救援に活躍したのは「自助」と「共助」が主だった。官のできたことはわずかだった。」との反省の弁の中で用いた概念だとの事。
 菅総理が用いた「自助、共助、公助」の順序論とは根本的に異なりますね

 そうです。「自助、共助、公助」論はその出自からして「怪しい」のです。
 中村大蔵さんによると、辞書には「自助」以外の言葉は無いということです。つまり「造語」であり、「造語」は、ある意図のもとに作られ流布されるものだということを考えると要注意ということになります。
 
 そもそも、災厄(自然災害や感染症)に立ち向かう人々の営みに「自助、共助、公助」の区別をつける必要がどこにあるのでしょうか? 被災者本人、地域その他の共同体、そして政府(自治体を含む)、三者それぞれに自分のなすべきことをする。それでよいではないですか。
 例えば「自助」の担い手である被災者が「私たち自身が頑張らなくちゃ」と言えば「その意気や良し」となりますが、「公助(官助)」の担い手である政府が「自助」の担い手である市民に向かって「自助が先だ」と言えばそれは責任逃れに他ならないことになります。
 事程左様に、同じ趣旨の言明も発言の主体が違えばその意義が正反対になります。公助の担い手である菅・前総理が「自助が先ですよ」と言ってはいけなかったのです。

 この発言はもう一つの問題を孕んでいます。「公助」の担い手である政府が、自助の担い手である被災者ー市民から財源と権限を預けられている受託者であるということを否認しているという点です。これは犯罪的ですらあります。政府には、市民から預けられた財源と権限を使って被災者の立ち直りを支援するという責務があるのであって、被災者に向かって「自助努力をしなさい」と説教する権利はないのです。これは民主主義の根幹にかかわることです。政権運営者のこの思い違いを許しては民主主義が成り立ちません。

 「自助、共助、公助」の造語はこのような意図をもって登場したと思われるふしがあります。私の記憶ではこの言葉が頻繁に使われだしたのは東日本大震災の後でした。
 阪神大震災は、日本の中で久しぶりに、そして過去をはるかに上回る規模で「ボランティア」というものが登場した、として「ボランティア元年」と呼ばれました。そのボランティアは、村井さんが著書「災害ボラんティアの心構え」(ソフトバンク新書)で記しているようにまさに「自主的、自立的、自律的」活動そのもの
だったのです。「言われてもやらない、言われなくてもやる」という言葉がその象徴です。
 
 そのような活動は権力者にとっては、魅力的であると同時に危険な要素をはらんだものに見えたでしょう。魅力的とは、それは社会的問題に取り組む「市民の自発性」であり、端的に言って「義勇軍」や「志願兵」につながる可能性を持っているという点です。権力者としてはこのエネルギーを自らの統制のもとに「回収」したいと思うのでしょう。参加者からは、日本の戦前の「国防婦人会」やナチスの国民動員手法などが例示されました。
 「一方、権力にとっての危険もまさにその「自発性」「自立・自律性」そのものにあります。権力の統制に服さない市民の自発、自立・自律ほど権力者にとって恐ろしいものはないでしょう。
 そこで登場するのが、「ボランティア迷惑」論であり「社協のボランティアセンターに登録」しろとの要求であり、「ボランティアの心得」でした。
 そして、同時に学者たちの間から「自助、共助、公助」の順序論が登場し、責任の分担が言われだしました。
 また、それに前後して、「自己責任」論が登場しました。イラクでのボランティア活動に対してでした。移動、交通の自由を前提に、どこにいようと何をしていようと、自国民の最低限生命を守るのが国の政府の責務ではなかったのでしょうか。暴力の前にそれが果たせなかったら、その非力を詫びることが必要なのであって、移動交通の自由を行使した人の責任を云々しては、これも責務放棄の上での居直りとしか言えません。政府は自らの立場ー責務を放棄した議論をごり押ししたのです。

 「すべてはお上の指示、統制の下で進めなさい。さもなくば知りませんよ」という思想攻撃が浸透してきています。私たちの中でさえ「自助、共助、公助」を当然のことと考える人たちが出てきていることを考えると安易に見過ごすことはできない問題だと思えます。

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