敵基地攻撃能力と専守防衛 ― 2023/02/08
「敵基地攻撃能力」と「専守防衛」
2023年2月8日
日本の政府が「敵基地攻撃能力」と大軍拡を言いだしました。
先日の朝日新聞に航空自衛隊の元航空団指令 林 吉永さんのインタビューがありました。
当時彼は、ソ連の領空侵犯機に対してスクランブル出動をする部下に、
「引き金を引くな」
「相手に先に撃たれて脱出することは批判をされるし恥辱でもあるだろうが、その覚悟と忍耐によって日本の正義が保障されるのであればパイロットは真のヒーローたりうる」と指導していたそうです。これは自衛隊の方針ではなく、処分覚悟であったと言います。
ここでは「撃たれて脱出」と言っていますが、「撃たれて死ぬ」ことも当然意味していたはずです。
またこうも言っています。
「専守防衛の短所は自国民の損害や犠牲が避けられないことです。専守防衛とは、戦闘が自国領域内で行われることを意味するからであり、そもそも特別の覚悟を要する戦略なのです。他方、長所もあります。自衛のための戦いであることが理解されやすく、戦闘の正当性が担保されるため、国際的な指示や支援を得やすいことです。」
ウクライナ戦争については、こう語りました。
「ロシアによる侵略を自国の深くまで受けながらロシア本土を攻撃することに抑制的な今のウクライナは、まさに専守防衛的な戦いをしています。自らの闘いの正しさを示すことで国際社会の支援を得ようと努める現実的で重い決断が見えます。」
米ソ冷戦当時の日本の軍事担当者の重い思考が伝わってきます。
政府は、「敵基地攻撃能力」「反撃能力」というのは、より長距離を飛ぶミサイルを装備したり、偵察能力を向上させたり、武器の備蓄を増やしたり、という、兵器や軍事的能力の問題であるかのように国民には説明しています。
その上で「専守防衛の方針は変わらない」とも言っています。しかし、ここに詭弁があります。
林、元指令が言うように「専守防衛」とは、相手より先に撃たないこと、他国領土で戦わないこと、を意味しているのです。それは相手より先に自分たちの側に犠牲や損害が出ることを覚悟した戦略なのです。先に撃たせないための「敵基地攻撃」は「専守防衛」とは異なるものです。
そもそも兵器は使い方によって盾にも鉾になるものです。現在の自衛隊の兵器でもやろうと思えば外国領土を攻撃できないわけではありません。「専守防衛」とは、その兵器の使い方について「先制攻撃しない」「自国領内に限る」という縛りをかけたものだったのです。
政府がわざわざ「敵基地攻撃能力を保有する」と言いだしたのは、この国の基本的防衛戦略を「専守防衛」から変更するということに他なりません。
軍事費の倍増や兵器の能力向上は、もちろん許すわけにはいきません。しかし同時にその裏に隠された基本的防衛戦略の変更を見逃さずに暴露しないといけません。
繰り返します。政府は、「専守防衛」をやめて、先制攻撃や国外での戦闘を可能にする方向に、戦争についてのこの国の基本的考え方を変えようとしているのです。
武力行使の正当性を確立するために、先に攻撃され自国に被害と犠牲がでることを覚悟のうえで、「専守防衛」という戦略を守ってきた林 元指令のような自衛隊幹部がいた時代は終わってしまったかも知れません。
実は、「集団的安全保障」にかじを切った時点で、すでに「専守防衛」は捨て去られ、この国の防衛戦略は変更されていた、ということなのでしょう。
今は、ウクライナ戦争と中国の拡大への恐怖心に付け込んで、その新しい戦略思想で国民の説得を試みているということでしょう。それも「やられる前にやってしまえ」という極めて低劣な、恐怖への反射を煽る形で。
我々は、今一度「専守防衛」という考え方の重要性を見直さなくてはならないのではないでしょうか。軍事力の不保持という理想は維持したままでも「専守防衛」の意義を語る勇気がいるのではないでしょうか。
戦争や安全保障の議論の中に「正当性」や「正義」が語られ、それを求める「国際世論」が大きな力として位置付けられる、そういう時代に私たちはようやくたどり着きかけていることを忘れてはいけません。その意味でウクライナの闘い方が、純軍事的には不合理ともいえるくらいロシア領内への攻撃を抑制している事にも思いを致すべきです。
もちろん、私たちの国が国際社会に向けて「専守防衛」の正当性を主張するためには、相手に攻撃させないだけの、国としての「正義」と「正当性」を、近隣国との過去の関係の反省、謝罪の上に確立しておくことが必要であることはいうまでもありません。
2023年2月8日
日本の政府が「敵基地攻撃能力」と大軍拡を言いだしました。
先日の朝日新聞に航空自衛隊の元航空団指令 林 吉永さんのインタビューがありました。
当時彼は、ソ連の領空侵犯機に対してスクランブル出動をする部下に、
「引き金を引くな」
「相手に先に撃たれて脱出することは批判をされるし恥辱でもあるだろうが、その覚悟と忍耐によって日本の正義が保障されるのであればパイロットは真のヒーローたりうる」と指導していたそうです。これは自衛隊の方針ではなく、処分覚悟であったと言います。
ここでは「撃たれて脱出」と言っていますが、「撃たれて死ぬ」ことも当然意味していたはずです。
またこうも言っています。
「専守防衛の短所は自国民の損害や犠牲が避けられないことです。専守防衛とは、戦闘が自国領域内で行われることを意味するからであり、そもそも特別の覚悟を要する戦略なのです。他方、長所もあります。自衛のための戦いであることが理解されやすく、戦闘の正当性が担保されるため、国際的な指示や支援を得やすいことです。」
ウクライナ戦争については、こう語りました。
「ロシアによる侵略を自国の深くまで受けながらロシア本土を攻撃することに抑制的な今のウクライナは、まさに専守防衛的な戦いをしています。自らの闘いの正しさを示すことで国際社会の支援を得ようと努める現実的で重い決断が見えます。」
米ソ冷戦当時の日本の軍事担当者の重い思考が伝わってきます。
政府は、「敵基地攻撃能力」「反撃能力」というのは、より長距離を飛ぶミサイルを装備したり、偵察能力を向上させたり、武器の備蓄を増やしたり、という、兵器や軍事的能力の問題であるかのように国民には説明しています。
その上で「専守防衛の方針は変わらない」とも言っています。しかし、ここに詭弁があります。
林、元指令が言うように「専守防衛」とは、相手より先に撃たないこと、他国領土で戦わないこと、を意味しているのです。それは相手より先に自分たちの側に犠牲や損害が出ることを覚悟した戦略なのです。先に撃たせないための「敵基地攻撃」は「専守防衛」とは異なるものです。
そもそも兵器は使い方によって盾にも鉾になるものです。現在の自衛隊の兵器でもやろうと思えば外国領土を攻撃できないわけではありません。「専守防衛」とは、その兵器の使い方について「先制攻撃しない」「自国領内に限る」という縛りをかけたものだったのです。
政府がわざわざ「敵基地攻撃能力を保有する」と言いだしたのは、この国の基本的防衛戦略を「専守防衛」から変更するということに他なりません。
軍事費の倍増や兵器の能力向上は、もちろん許すわけにはいきません。しかし同時にその裏に隠された基本的防衛戦略の変更を見逃さずに暴露しないといけません。
繰り返します。政府は、「専守防衛」をやめて、先制攻撃や国外での戦闘を可能にする方向に、戦争についてのこの国の基本的考え方を変えようとしているのです。
武力行使の正当性を確立するために、先に攻撃され自国に被害と犠牲がでることを覚悟のうえで、「専守防衛」という戦略を守ってきた林 元指令のような自衛隊幹部がいた時代は終わってしまったかも知れません。
実は、「集団的安全保障」にかじを切った時点で、すでに「専守防衛」は捨て去られ、この国の防衛戦略は変更されていた、ということなのでしょう。
今は、ウクライナ戦争と中国の拡大への恐怖心に付け込んで、その新しい戦略思想で国民の説得を試みているということでしょう。それも「やられる前にやってしまえ」という極めて低劣な、恐怖への反射を煽る形で。
我々は、今一度「専守防衛」という考え方の重要性を見直さなくてはならないのではないでしょうか。軍事力の不保持という理想は維持したままでも「専守防衛」の意義を語る勇気がいるのではないでしょうか。
戦争や安全保障の議論の中に「正当性」や「正義」が語られ、それを求める「国際世論」が大きな力として位置付けられる、そういう時代に私たちはようやくたどり着きかけていることを忘れてはいけません。その意味でウクライナの闘い方が、純軍事的には不合理ともいえるくらいロシア領内への攻撃を抑制している事にも思いを致すべきです。
もちろん、私たちの国が国際社会に向けて「専守防衛」の正当性を主張するためには、相手に攻撃させないだけの、国としての「正義」と「正当性」を、近隣国との過去の関係の反省、謝罪の上に確立しておくことが必要であることはいうまでもありません。
昨日ご案内した「ボストン市庁舎」を見る会の日程変更 ― 2023/01/20
ごめんなさい。「ボストン市庁舎」を見る会、日程を以下のように変更します。
変更前2月26日(日)午後3時から6時。
変更後2月25日午後1時から6時。
会場は同じ、東難波町内会館です。
変更前2月26日(日)午後3時から6時。
変更後2月25日午後1時から6時。
会場は同じ、東難波町内会館です。
ボストン市庁舎を見て自治を考えよう ― 2023/01/19
ご案内 「ボストン市庁舎」を見て、自治を考える夕べ
この映画はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画です。
アメリカのボストンの市役所の多様な仕事を、アナウンス抜きでひたすら撮り続けた2部・計4時間以上の大作です。この監督には「ニューヨーク公共図書館」というドキュメンタリー作品もあります。
昨年の1月、私のブログに書いたこの映画の紹介を引用します。
「ボストン市庁舎」、見てきました。
こう書くと「酒井はアメリカに行ってきたのか」と勘違いした人がいたようですが、
そうではありません。すごい映画を見てきたのです。
自治体や福祉に関わる人必見です。
暮らしを良くし、人権を守るために努力を共にする職員と市民の姿を縦糸に、
その努力の「良きリーダー」として信頼を集めるウォルシュ市長が横糸で絡みます。
こう書くと、「政治宣伝か?」と、見る気を失う人が多いのでは、と心配になりますが、
とにかく、ちょっとしたショックでした。
私が夢見てきた自治体の理想的な姿がこのボストン市庁舎のドキュメンタリーに
切り取られていることに、そしてそれが私の知っている(尼崎などの)市役所の現実と、
それほど「かけ離れていない」ことにやや興奮してしまいました。
努力には希望があり、それぞれの努力はそれほどかけ離れたものではないのです。
繰り返します、必見です。
1年経ってようやく一緒に見る機会を持ちます。自治とか市の政治とかを考える糸口になればと思います。
松本市長にも「ぜひご覧下さい」と勧めていたのですが、「多忙でなかなか一人だと見る時間が取れない」との事ですので、この会にお誘いしました。変な時間なのはその都合です。
1度に4時間見るのは大変です。その日は第1部だけにして、次回第2部の日を相談したいと思っています。
〇日時 2月26日(日曜日)午後3時から6時
〇会場 東難波町4丁目8―11 東難波連合福祉会館
(信じられないことに、中央北生涯学習プラザは日曜日の夜の部がないのです。)
〇参加費 会場借り上げ料を割り勘してください。
ご参加の方は酒井まで連絡下さい。電話090-1903-3171
この映画はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画です。
アメリカのボストンの市役所の多様な仕事を、アナウンス抜きでひたすら撮り続けた2部・計4時間以上の大作です。この監督には「ニューヨーク公共図書館」というドキュメンタリー作品もあります。
昨年の1月、私のブログに書いたこの映画の紹介を引用します。
「ボストン市庁舎」、見てきました。
こう書くと「酒井はアメリカに行ってきたのか」と勘違いした人がいたようですが、
そうではありません。すごい映画を見てきたのです。
自治体や福祉に関わる人必見です。
暮らしを良くし、人権を守るために努力を共にする職員と市民の姿を縦糸に、
その努力の「良きリーダー」として信頼を集めるウォルシュ市長が横糸で絡みます。
こう書くと、「政治宣伝か?」と、見る気を失う人が多いのでは、と心配になりますが、
とにかく、ちょっとしたショックでした。
私が夢見てきた自治体の理想的な姿がこのボストン市庁舎のドキュメンタリーに
切り取られていることに、そしてそれが私の知っている(尼崎などの)市役所の現実と、
それほど「かけ離れていない」ことにやや興奮してしまいました。
努力には希望があり、それぞれの努力はそれほどかけ離れたものではないのです。
繰り返します、必見です。
1年経ってようやく一緒に見る機会を持ちます。自治とか市の政治とかを考える糸口になればと思います。
松本市長にも「ぜひご覧下さい」と勧めていたのですが、「多忙でなかなか一人だと見る時間が取れない」との事ですので、この会にお誘いしました。変な時間なのはその都合です。
1度に4時間見るのは大変です。その日は第1部だけにして、次回第2部の日を相談したいと思っています。
〇日時 2月26日(日曜日)午後3時から6時
〇会場 東難波町4丁目8―11 東難波連合福祉会館
(信じられないことに、中央北生涯学習プラザは日曜日の夜の部がないのです。)
〇参加費 会場借り上げ料を割り勘してください。
ご参加の方は酒井まで連絡下さい。電話090-1903-3171
光本議員の政務活動費不正使用疑惑に対して「審査会」を開かせよう ― 2022/09/06
光本圭佑さんという、尼崎で結構支持を集めてきた市議会議員。先だって政務活動費の不正使用疑惑が明らかになり、議会全体から「辞職勧告決議」を受ける羽目になりました。
当の光本議員は辞職する気配もなく、この9月議会でも一般質問に立とうかという勢いです。
どういう疑惑だったのか。
彼は市議会の会派「日本維新の会尼崎市議団」の幹事長でした。したがって政務活動費の使用を決定する責任者です。
大手家電量販店からパソコンなどを購入。その報告を議会事務局に提出するにあたって、金額の内訳を示す納品書を偽造しました。この事実は本人も認めています。「納品書が見当たらなかったので、とりあえずパソコンで作って提出した。見つかったら差し替えるつもりだった」と彼は言い訳しています。理由はどうあれこれは「私文書偽造」という刑事犯にあたります。
納品書がないのなら、その量販店に購入内容を証明してもらうことはできたのではないでしょうか。いやその前に、どうして監督者である議会事務局に相談しなかったのでしょうか。
しかし、これはまあ買ったことが事実で適切ならば、判りやすい悪事ことです。
これからあとが凄いのです。まさに疑惑です。
まず、光本議員が会派の口座に支給された政務活動費の中から250万円を引き出させ自分の口座に移していたという事実です。会派の他の議員は知らない間にです。
「会派分裂のおそれがあり、政務活動費が持っていかれるのを防ぐためだった」と彼は弁明します。しかし、会派が分裂すれば政務活動費も人数に従って分けられることが当然であり、隠す必要はどこにもありません。
そもそも、どんな理由があれ、公式の会派口座から、具体的な支出目的もなく自分個人の口座に公金を移すなどと言う事が許されるわけはありません。着服の疑いを抱かれます。
ひょっとして彼は、「政務活動費は会派のもの。会派の考え次第でどう扱ってもいい。」と思っていたのではないでしょうか。
そうではないのです。政務活動費は市からの補助金ですが、年度末に残れば市に返すことになっています。使い方も議長ー市議会事務局の監視・監督の下に置かれている、半ば以上は公金なのです。特に尼崎市議会では、30年前のカラ出張事件からの再出発以来、議員の公金の使い方を厳正にするためにたゆむことのない努力が積み重ねられてきました。これは、その伝統を踏みにじるようなお金の扱い方でした。
もっと怪しいことがあります。政務活動費で会派の広報誌を作ることが認められています。
光本議員は2021年11月に、製作費と配布費を某会社に自ら現金で支払いました。そもそもこのような支払いは経理担当者か会派職員が行います。幹事長は支出を決定しますが自ら直接現金で支払いするようなことはありません。
この発注はその後キャンセルされたましたが、お金が返金されたのは約半年後の年度末でした。半年も返金が遅れるというのはちょっと考えられません。その間、お金はどこでどうしていたのでしょうか。
他にも何件か、変な政務活動費の使い方があります。
総じて、何よりも問題なのは、光本議員がこれらの疑惑に対して、納品書の偽造以外は何ら説明をしていないことです。議会の「辞職勧告決議」もこのように説明がないことに対して上げられたのです。
あろうことか光本議員は、その後説明を求められた委員会への出席を拒否する口実に「事実関係が不明瞭なまま光本の辞職勧告がなされ・・・誠に遺憾・・・」などと代理人を通して述べています。事実関係を明瞭にするのは光本議員の責任なのです。
(警察の捜査の中で明らかにしていきます。」とも言って議会での説明拒否の言い訳にしています。
「警察の捜査中なので、他での説明は避けさせてもらいます」という言い訳は一般の被疑者なら通用するかもしれません。被疑者の防衛権です。
しかし光本議員は、被疑者として警察の捜査の対象になる前からそう言っていました。自分から警察に行ったそうです。(いろいろ言われていますが僕は無実です。捜査してください)とでもいったのでしょうか。言われた警察も困惑したことでしょう。警察は無実を証明するために捜査する役所ではありません。
その後議会による告発があって、警察が捜査する局面になりました。しか今回の疑惑は「政治家による公金の使い方」に関するものです。一般の被疑者のような「防衛権」は言い訳にはなりません。一般の事件ならば有罪の証明責任は警察・検察側にあるのですが、「政治家による公金の使い方」に関する疑惑は当該の政治家が晴らさねばなりません。その責任は政治家にあるのです。そこには「防衛権」はありません。「李下に冠を正さず」が求められるのです。
その意味で尼崎市議会議員政治倫理条例は、市議会議員に対して市民の請求に応えて疑惑の説明をする責任を課しているのです。その請求も「個人でだれでも」という訳ではなくて、有権者の150分の1の署名というハードルを課して乱用を防いであります。
議会に対しても説明を拒んでいる光本議員に対して、主権者である市民から「我々主権者に対してまで説明しないとは言えないだろう」と迫ろうじゃありませんか。
150分の1は3000名弱です。不可能ではない数です。どうぞ一緒に頑張りましょう。
当の光本議員は辞職する気配もなく、この9月議会でも一般質問に立とうかという勢いです。
どういう疑惑だったのか。
彼は市議会の会派「日本維新の会尼崎市議団」の幹事長でした。したがって政務活動費の使用を決定する責任者です。
大手家電量販店からパソコンなどを購入。その報告を議会事務局に提出するにあたって、金額の内訳を示す納品書を偽造しました。この事実は本人も認めています。「納品書が見当たらなかったので、とりあえずパソコンで作って提出した。見つかったら差し替えるつもりだった」と彼は言い訳しています。理由はどうあれこれは「私文書偽造」という刑事犯にあたります。
納品書がないのなら、その量販店に購入内容を証明してもらうことはできたのではないでしょうか。いやその前に、どうして監督者である議会事務局に相談しなかったのでしょうか。
しかし、これはまあ買ったことが事実で適切ならば、判りやすい悪事ことです。
これからあとが凄いのです。まさに疑惑です。
まず、光本議員が会派の口座に支給された政務活動費の中から250万円を引き出させ自分の口座に移していたという事実です。会派の他の議員は知らない間にです。
「会派分裂のおそれがあり、政務活動費が持っていかれるのを防ぐためだった」と彼は弁明します。しかし、会派が分裂すれば政務活動費も人数に従って分けられることが当然であり、隠す必要はどこにもありません。
そもそも、どんな理由があれ、公式の会派口座から、具体的な支出目的もなく自分個人の口座に公金を移すなどと言う事が許されるわけはありません。着服の疑いを抱かれます。
ひょっとして彼は、「政務活動費は会派のもの。会派の考え次第でどう扱ってもいい。」と思っていたのではないでしょうか。
そうではないのです。政務活動費は市からの補助金ですが、年度末に残れば市に返すことになっています。使い方も議長ー市議会事務局の監視・監督の下に置かれている、半ば以上は公金なのです。特に尼崎市議会では、30年前のカラ出張事件からの再出発以来、議員の公金の使い方を厳正にするためにたゆむことのない努力が積み重ねられてきました。これは、その伝統を踏みにじるようなお金の扱い方でした。
もっと怪しいことがあります。政務活動費で会派の広報誌を作ることが認められています。
光本議員は2021年11月に、製作費と配布費を某会社に自ら現金で支払いました。そもそもこのような支払いは経理担当者か会派職員が行います。幹事長は支出を決定しますが自ら直接現金で支払いするようなことはありません。
この発注はその後キャンセルされたましたが、お金が返金されたのは約半年後の年度末でした。半年も返金が遅れるというのはちょっと考えられません。その間、お金はどこでどうしていたのでしょうか。
他にも何件か、変な政務活動費の使い方があります。
総じて、何よりも問題なのは、光本議員がこれらの疑惑に対して、納品書の偽造以外は何ら説明をしていないことです。議会の「辞職勧告決議」もこのように説明がないことに対して上げられたのです。
あろうことか光本議員は、その後説明を求められた委員会への出席を拒否する口実に「事実関係が不明瞭なまま光本の辞職勧告がなされ・・・誠に遺憾・・・」などと代理人を通して述べています。事実関係を明瞭にするのは光本議員の責任なのです。
(警察の捜査の中で明らかにしていきます。」とも言って議会での説明拒否の言い訳にしています。
「警察の捜査中なので、他での説明は避けさせてもらいます」という言い訳は一般の被疑者なら通用するかもしれません。被疑者の防衛権です。
しかし光本議員は、被疑者として警察の捜査の対象になる前からそう言っていました。自分から警察に行ったそうです。(いろいろ言われていますが僕は無実です。捜査してください)とでもいったのでしょうか。言われた警察も困惑したことでしょう。警察は無実を証明するために捜査する役所ではありません。
その後議会による告発があって、警察が捜査する局面になりました。しか今回の疑惑は「政治家による公金の使い方」に関するものです。一般の被疑者のような「防衛権」は言い訳にはなりません。一般の事件ならば有罪の証明責任は警察・検察側にあるのですが、「政治家による公金の使い方」に関する疑惑は当該の政治家が晴らさねばなりません。その責任は政治家にあるのです。そこには「防衛権」はありません。「李下に冠を正さず」が求められるのです。
その意味で尼崎市議会議員政治倫理条例は、市議会議員に対して市民の請求に応えて疑惑の説明をする責任を課しているのです。その請求も「個人でだれでも」という訳ではなくて、有権者の150分の1の署名というハードルを課して乱用を防いであります。
議会に対しても説明を拒んでいる光本議員に対して、主権者である市民から「我々主権者に対してまで説明しないとは言えないだろう」と迫ろうじゃありませんか。
150分の1は3000名弱です。不可能ではない数です。どうぞ一緒に頑張りましょう。
光本議員の弁明 ― 2022/06/28
尼崎市議会、維新の光本議員の政務活動費の「不適切」使用問題。尼崎市議会の公費厳正使用の歴史を作ってきた者として、幾人かの退職市議と語らって、抗議の声明を出し、スタンドデモを6月議会最終日に実行しました。
スタンドデモ自体は、騒ぐ形にはせず「深く静かに」抗議する形にすべく参加を控えてもらった結果、数人の元議員と市民でやることになりましたが、現職の議員の皆さんとも怒りを共有することができ、やった意味はあったと思います。
午後からの本会議では、光本議員への「議員辞職勧告決議」が予定されていたので、仕事に行く前にその前半部分だけ傍聴することができました。
提案説明と、光本議員の弁明を傍聴できたのですが、彼の弁明には正直失望しました。
私の主観かもしれませんが、彼の弁明の主軸は「自分は、軽率なことはしたが、辞職を求められるような悪いことはしていない」「警察に捜査してもらうことで説明責任を果たす」というものでした。
県警の捜査二課(詐欺など知能犯担当)に行って「資料を提出して任意で捜査してくれるようお願いした」というのです。
彼はつまり「僕は悪いことはしていません。捜査してそれを明らかにしてください」と警察に要請したというのです。
でもちょっと待ってください。
警察は犯罪があったと思われる事案について捜査するのが仕事です。どこの警察が「犯罪はないことを証明してくれ」という訴えに応じるのでしょうか?僕の無実を証明してください」という求めに応えることは警察の仕事ではないでしょう。
現時点で、だれからも違法行為=犯罪の存在が警察に通報されていないのです。
県警捜査二課もさぞ戸惑ったことでしょう。
「弁護士を同行した」と言っていますが、その弁護士さん、警察の仕事について当該議員に説明してあげるのが仕事でしょう。
これは素人考えかもしれません。ひょっとすると警察はこんな仕事もするのかもしれません。
だったら私も自分の身の潔白を・・・。(これは冗談です)
しかしこのことだけは言えます。
光本議員、自分の行為が「違法」や「不適切」でないという説明はご自分でなさい。それが本当の「政治家の説明責任」です。
それとも、警察をかませることで「その件は司直が捜査中なので、お答えを控えます。」という、どこかの偉い政治家の答えをまねようという目論見ですか?
2度目のタッチアウトですね。彼の潔さについて、わずかに希望がなかったわけではないのですが・・・。ほんとに失望しました。
スタンドデモ自体は、騒ぐ形にはせず「深く静かに」抗議する形にすべく参加を控えてもらった結果、数人の元議員と市民でやることになりましたが、現職の議員の皆さんとも怒りを共有することができ、やった意味はあったと思います。
午後からの本会議では、光本議員への「議員辞職勧告決議」が予定されていたので、仕事に行く前にその前半部分だけ傍聴することができました。
提案説明と、光本議員の弁明を傍聴できたのですが、彼の弁明には正直失望しました。
私の主観かもしれませんが、彼の弁明の主軸は「自分は、軽率なことはしたが、辞職を求められるような悪いことはしていない」「警察に捜査してもらうことで説明責任を果たす」というものでした。
県警の捜査二課(詐欺など知能犯担当)に行って「資料を提出して任意で捜査してくれるようお願いした」というのです。
彼はつまり「僕は悪いことはしていません。捜査してそれを明らかにしてください」と警察に要請したというのです。
でもちょっと待ってください。
警察は犯罪があったと思われる事案について捜査するのが仕事です。どこの警察が「犯罪はないことを証明してくれ」という訴えに応じるのでしょうか?僕の無実を証明してください」という求めに応えることは警察の仕事ではないでしょう。
現時点で、だれからも違法行為=犯罪の存在が警察に通報されていないのです。
県警捜査二課もさぞ戸惑ったことでしょう。
「弁護士を同行した」と言っていますが、その弁護士さん、警察の仕事について当該議員に説明してあげるのが仕事でしょう。
これは素人考えかもしれません。ひょっとすると警察はこんな仕事もするのかもしれません。
だったら私も自分の身の潔白を・・・。(これは冗談です)
しかしこのことだけは言えます。
光本議員、自分の行為が「違法」や「不適切」でないという説明はご自分でなさい。それが本当の「政治家の説明責任」です。
それとも、警察をかませることで「その件は司直が捜査中なので、お答えを控えます。」という、どこかの偉い政治家の答えをまねようという目論見ですか?
2度目のタッチアウトですね。彼の潔さについて、わずかに希望がなかったわけではないのですが・・・。ほんとに失望しました。
光本弾劾 尼崎市議会前スタンドデモ ― 2022/06/23
尼崎市議会、光本議員による政務活動費の不適切な使用。
30年前のカラ出張事件も議員が公金で活動するにあたっての不正使用であるという意味で今回同様の事件でした。以来、尼崎市議会は、「議員の公金の使い方の厳正化」を目指して、制度改革や規範作りに努力を積み重ねてきました。
カラ出張事件という歴史を背負った尼崎市議は、他のどの議会の議員にも増して、その活動のために提供されている公金の使い方に厳正でなくてはいけない、それが使命でした。
今明らかになっているだけでも、今回の光本事件は、その使命を果たしてきた努力の成果ー歴史を土足で踏みにじるものです。単なる「不適切」にとどまらずこのような努力とその成果への冒涜だと断じます。
光本圭佑さん、いかに他の面で秀でようが、尼崎市議たる者、とりわけこのような不始末だけはしてはいけなかったのです。
現役の議員諸君にあっては光本議員の辞職勧告を決議する動きがあると聞きました。カラ出張事件の時と違って議会の自浄作用が働くものと期待します。
私たち議員経験者も、尼崎の市議会のこれまでの努力の歴史を背負って、彼の責任を問うべきだと思います。
私は、現在開かれている議会の最終日、6月28日、市議会の前で弾劾のスタンドデモをすることにしました。朝9時から10時30分までです。ご賛同いただけるかたの参加を訴えます。
30年前のカラ出張事件も議員が公金で活動するにあたっての不正使用であるという意味で今回同様の事件でした。以来、尼崎市議会は、「議員の公金の使い方の厳正化」を目指して、制度改革や規範作りに努力を積み重ねてきました。
カラ出張事件という歴史を背負った尼崎市議は、他のどの議会の議員にも増して、その活動のために提供されている公金の使い方に厳正でなくてはいけない、それが使命でした。
今明らかになっているだけでも、今回の光本事件は、その使命を果たしてきた努力の成果ー歴史を土足で踏みにじるものです。単なる「不適切」にとどまらずこのような努力とその成果への冒涜だと断じます。
光本圭佑さん、いかに他の面で秀でようが、尼崎市議たる者、とりわけこのような不始末だけはしてはいけなかったのです。
現役の議員諸君にあっては光本議員の辞職勧告を決議する動きがあると聞きました。カラ出張事件の時と違って議会の自浄作用が働くものと期待します。
私たち議員経験者も、尼崎の市議会のこれまでの努力の歴史を背負って、彼の責任を問うべきだと思います。
私は、現在開かれている議会の最終日、6月28日、市議会の前で弾劾のスタンドデモをすることにしました。朝9時から10時30分までです。ご賛同いただけるかたの参加を訴えます。
「外国人労働者、移民問題」 その道の第一人者が語る講座 のご案内 ― 2022/06/05
「外国人労働者、移民問題」
その道の第一人者が語る講座 のご案内
日時 6月15日(水)18時から
会場 尼崎市立中央北生涯学習プラザ(梅プラザ)「阪神合同労組」で借ります。
先週の木曜日、6.2、鳥井一平さん一行が尼崎にやってきたので、一緒に駅前で「外国人技能実習生制度反対」のスタンディングキャンペーンをしました。
「それ誰?」って?
無理もありません。私の運動仲間です。当然に無名です。
でも、彼は、日本の外国人労働者問題に取り組んで、アメリカ国務省から「人身売買と闘うヒーロー」として表彰された人なのです。アメリカは奴隷制反対を「国是」としている国です。その「国是」の立場から表彰されたのですから結構なことだと思います。
世界中で顰蹙を買っている日本の外国人技能実習制度。実際は労働者として働かせていながら、移民としても労働者としても認めず、「実習」の名のもとに奴隷のように、自由もなく劣悪な条件で働かせる「現代の奴隷制度」と呼ばれています。鳥井さんはその問題に、現場で取り組んできた第一人者なのです。
なぜ今、改めてそのキャンペーンなのかというと、この制度を含めて、外国人労働者政策について政府に見直しの動きがあるそうなのです。
私は、ウクライナの難民についてはもろ手を挙げて歓迎している(それは良いことなのですが)日本が、他方では外国人労働者に労働者として、人間としての権利を認めず、また(ウクライナ以外の)難民受け入れには世界でもとびぬけた厳しい対応をしている現実を想い浮べました。
そこで、その場で鳥井さんに話を付けてこの次に関西に来る6月の15日に尼崎で話してもらうことにしました。
難民問題と外国人労働者問題はこの国の人権政策に刺さった大きな棘(とげ)で
す。
いまや、この課題での世界的人物になってしまったわが仲間の話です。ぜひ、「生の鳥井一平」の話を聞きに来てください。
改めて
6月15日18時
尼崎中央北生涯学習プラザ
阪神合同労組主催 にしてもらいました。
その道の第一人者が語る講座 のご案内
日時 6月15日(水)18時から
会場 尼崎市立中央北生涯学習プラザ(梅プラザ)「阪神合同労組」で借ります。
先週の木曜日、6.2、鳥井一平さん一行が尼崎にやってきたので、一緒に駅前で「外国人技能実習生制度反対」のスタンディングキャンペーンをしました。
「それ誰?」って?
無理もありません。私の運動仲間です。当然に無名です。
でも、彼は、日本の外国人労働者問題に取り組んで、アメリカ国務省から「人身売買と闘うヒーロー」として表彰された人なのです。アメリカは奴隷制反対を「国是」としている国です。その「国是」の立場から表彰されたのですから結構なことだと思います。
世界中で顰蹙を買っている日本の外国人技能実習制度。実際は労働者として働かせていながら、移民としても労働者としても認めず、「実習」の名のもとに奴隷のように、自由もなく劣悪な条件で働かせる「現代の奴隷制度」と呼ばれています。鳥井さんはその問題に、現場で取り組んできた第一人者なのです。
なぜ今、改めてそのキャンペーンなのかというと、この制度を含めて、外国人労働者政策について政府に見直しの動きがあるそうなのです。
私は、ウクライナの難民についてはもろ手を挙げて歓迎している(それは良いことなのですが)日本が、他方では外国人労働者に労働者として、人間としての権利を認めず、また(ウクライナ以外の)難民受け入れには世界でもとびぬけた厳しい対応をしている現実を想い浮べました。
そこで、その場で鳥井さんに話を付けてこの次に関西に来る6月の15日に尼崎で話してもらうことにしました。
難民問題と外国人労働者問題はこの国の人権政策に刺さった大きな棘(とげ)で
す。
いまや、この課題での世界的人物になってしまったわが仲間の話です。ぜひ、「生の鳥井一平」の話を聞きに来てください。
改めて
6月15日18時
尼崎中央北生涯学習プラザ
阪神合同労組主催 にしてもらいました。
ウクライナ戦争について 再び ― 2022/05/24
2022年5月24日
酒井 一
ロシアの侵攻を受けているウクライナを引き合いに出して、日本の防衛力の強化を主張する人たちがいます。
その主張は、「核共有」という名の核武装、「敵基地攻撃能力」という名の先制攻撃、などです。それは、中国や「北朝鮮」やロシアなどを「仮想敵国」とする論理の中での軍事のことで、これまで憲法9条をめぐって展開されてきた自衛権―専守防衛の枠組みを超えています。そして、この「軍事的論理」こそ、今のロシアが陥っている陥穽なのです。
第一の落とし穴を「地政学的論理」と仮に呼びます。軍事的関係と地理的関係を―なんといえばいいのか―強引に結びつける考え方です。
典型的には、仮想敵国を作り、それとの間に「緩衝地帯」を求めます。仲がよかろうが悪かろうが、隣国同士は折り合いをつけて暮らすしかないのに、「気に入らないからやっつけろ」というのです。ある国を、戦争もしていないのに敵国とする考え方もいかがなものかと思いますが、その国との間に「緩衝地帯」を求めるに至っては、「その『緩衝地帯』にも人々が住んでおり、国家や社会があるのですよ。緩衝地帯とはなんという失礼な・・・」と言いたくなります。
これは、まさに今のロシアが主張している考えです。曰く「NATOが東に拡大してロシアの国境に迫っている。これは許せない軍事的脅威だ。」「隣国ウクライナが非友好的になることは我慢できない」・・・近隣関係を軍事的関係に従属させ、軍事的関係で処理しようとする考え方です。
日本もかつてこの論理にはまって国を誤ったことがあるのです。
かつて日本は「朝鮮がロシアの勢力下にはいることは国家の危機だ」との理屈で日露戦争を起こし、朝鮮半島を植民地にしました。また「中国東北部(満州)はソ連に対する緩衝地帯」との考えのもと戦争を起こして傀儡「満州国」を立ち上げました。その次は、「中国が日本に敵対している」ということで攻め込んでいきました。
その際は「中国と日本は『同文同種』」と言って兄弟であるかのように言い、「暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめる)」という、とても上から目線なスローガンを掲げました。
「ウクライナとロシアは同じ民族」「ウクライナがナチズムになるのを阻止する」という今のロシアの「大義名分」とそっくりです。
そして、欧米側の支援のもと予想を超える中国の抵抗に戦争が長引き、兵力の逐次投入や補給兵站の不足という拙劣な戦争指導で苦戦したこと、さらに、戦えば戦うほど国際社会で敵が増え、世界の世論を敵に回して孤立していっていることも、似ている点が多いことに戦慄さえ覚えます。
私たちが、ロシアのウクライナ侵攻から教訓にしなくてはいけないことは、「軍事力の強化」云々ではなく、これからはこの「地政学的論理」の落とし穴にはまらないようにしなくてはいけない、ということ以外ではありません。日本の政権もマスコミも、ロシアのウクライナ「侵略」とは決して言わないのはなぜでしょうか。諸外国はすっきりと「侵略」と言っているにもかかわらず、です。そこに、かつての誤った戦争政策を真正面から反省していないこの国の病弊を見るのは無理筋でしょうか。
教訓にすべきことの第二は、これも適切な言葉が見当たらないのですが、「拡張された国益―民族主義的、イデオロギー的国益」とでも言うべき観念にとらわれてはいけないということです。
ロシアの行動の背景にはユーラシア大陸の大半に版図を拡げた旧ソ連時代の記憶があると思われます。そのもとではウクライナもベラルーシも、ジョージアも、ロシアを盟主とするソビエト連邦の傘下にあったのです。プーチンの振る舞いがその記憶にとらわれたものであるということは、争えないところでしょう。観念的に拡張された「民族主義的国益」です。
今、日本の軍備拡張を主張している人々の脳裏をよぎっているであろう「国益」の重要部分は三つの領土問題でしょう。尖閣列島(魚釣島)を中国と、竹島(独島)を韓国と、そして千島列島をロシアと、この三件の争いがナショナリズムを煽り、「国防」を主張する材料になっています。その先兵である「維新の党」の若い議員が言ったように、かれらの思想では「領土問題は戦争でしか解決しない」のです。
しかし、冷静に考えると、これらのいずれの争いも、「国の命運をかけて軍事的手段に訴えてでも」争わなくてはいけない「国益」がかかっているのでしょうか?私にはいずれの争いも経済的、社会的な打開の道がありそうに思えます。海底資源と漁業資源の話は経済的交渉のテーマになるはずです。海域の自由交通権問題も同じです。そこにお互いが軍事の論理とイデオロギーに絡みつかれた「国益」を持ち込みさえしなければ・・・。
イデオロギーと軍事的論理で化け物のように拡大された「国益」。その「国益」をその国の人々が暮らしていく上での利益にまで還元してしまえば、事態はもっと平明なものになるはずです。
今の世界で、国際紛争を引き起こし、多くをこじらせている大きな原因の一つがこの「拡張された『国益』=ナショナリズム」だと思います。
これから免れた国際紛争の解決の道筋を探らねばなりません。
以前にも書きましたが、まる一世紀歴史を巻き戻したかのようなロシアの侵略、そしてそれをめぐる軍事的地政学的論理とイデオロギー的ナショナリズムに絡みつかれた戦争拡大の危機¬―戦争を解決するに戦争をもってする―。今回も我々はそのディレンマから解き放たれないかに見えます
この危機に対抗するものは、今回大きく登場した、全世界の人々の「世界世論」とでもいうべき発言と発信の高まり以外にありません。国々が語る「国際世論」ではなく人々が発する「世界世論」です。この「世界世論」は情報・通信の飛躍的発達で、以前では考えられなかった規模と速度で影響を拡げます。
そしてその「世界世論」は、パリ不戦条約以来、現在の国連憲章、日本国憲法などに続く、戦争否定の思想に依拠しています。
「人間の尊厳」を基本として戦争を否定する考え方は、今や単なる「理想」「たてまえ」の域を超えて、国際法規の地位を確立し、世界の人々の「世界世論」をその基礎に持つようになったのです。
閑話休題
もう一つ、その陰に起きている恐るべきこととして、マスコミの視点の変化を挙げておかねばなりません。
ゴールデンタイムのテレビニュースに軍人が、解説者として、したり顔に出演し、戦争を地政学的に説明することが蔓延しているのです。地政学的には戦争は必然として説明されます。地政学的には「敵」を作った限りは緩衝地帯が必要となり、「国益」を拡張すれば、無際限な領土拡大が必要となるのです。ヒトラーの最も説得力のあったスローガンは「東に生存権を拡張する」だったのです。
もっと矮小なことですが、悲しむべき事に、情勢を狭い「軍事」で説明することが流行しだしました。それも軍人が出演して、です。
どう前線が動いたか、ならまだしも、アメリカが供与した「(おそらく155mm)りゅう弾砲」の数が戦局を左右するものであるといわれます。対戦車ミサイル「ジャベリン」や対空ミサイル「スティンガー」の効果が重大事として報道されるニュースに浸かってしまった我々に、戦争をやめさせたり、回避する道筋を考えたりすることは容易ではなくなってしまいます。
マスコミもかつてハマった落とし穴に気を付けてほしいものです。
酒井 一
ロシアの侵攻を受けているウクライナを引き合いに出して、日本の防衛力の強化を主張する人たちがいます。
その主張は、「核共有」という名の核武装、「敵基地攻撃能力」という名の先制攻撃、などです。それは、中国や「北朝鮮」やロシアなどを「仮想敵国」とする論理の中での軍事のことで、これまで憲法9条をめぐって展開されてきた自衛権―専守防衛の枠組みを超えています。そして、この「軍事的論理」こそ、今のロシアが陥っている陥穽なのです。
第一の落とし穴を「地政学的論理」と仮に呼びます。軍事的関係と地理的関係を―なんといえばいいのか―強引に結びつける考え方です。
典型的には、仮想敵国を作り、それとの間に「緩衝地帯」を求めます。仲がよかろうが悪かろうが、隣国同士は折り合いをつけて暮らすしかないのに、「気に入らないからやっつけろ」というのです。ある国を、戦争もしていないのに敵国とする考え方もいかがなものかと思いますが、その国との間に「緩衝地帯」を求めるに至っては、「その『緩衝地帯』にも人々が住んでおり、国家や社会があるのですよ。緩衝地帯とはなんという失礼な・・・」と言いたくなります。
これは、まさに今のロシアが主張している考えです。曰く「NATOが東に拡大してロシアの国境に迫っている。これは許せない軍事的脅威だ。」「隣国ウクライナが非友好的になることは我慢できない」・・・近隣関係を軍事的関係に従属させ、軍事的関係で処理しようとする考え方です。
日本もかつてこの論理にはまって国を誤ったことがあるのです。
かつて日本は「朝鮮がロシアの勢力下にはいることは国家の危機だ」との理屈で日露戦争を起こし、朝鮮半島を植民地にしました。また「中国東北部(満州)はソ連に対する緩衝地帯」との考えのもと戦争を起こして傀儡「満州国」を立ち上げました。その次は、「中国が日本に敵対している」ということで攻め込んでいきました。
その際は「中国と日本は『同文同種』」と言って兄弟であるかのように言い、「暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめる)」という、とても上から目線なスローガンを掲げました。
「ウクライナとロシアは同じ民族」「ウクライナがナチズムになるのを阻止する」という今のロシアの「大義名分」とそっくりです。
そして、欧米側の支援のもと予想を超える中国の抵抗に戦争が長引き、兵力の逐次投入や補給兵站の不足という拙劣な戦争指導で苦戦したこと、さらに、戦えば戦うほど国際社会で敵が増え、世界の世論を敵に回して孤立していっていることも、似ている点が多いことに戦慄さえ覚えます。
私たちが、ロシアのウクライナ侵攻から教訓にしなくてはいけないことは、「軍事力の強化」云々ではなく、これからはこの「地政学的論理」の落とし穴にはまらないようにしなくてはいけない、ということ以外ではありません。日本の政権もマスコミも、ロシアのウクライナ「侵略」とは決して言わないのはなぜでしょうか。諸外国はすっきりと「侵略」と言っているにもかかわらず、です。そこに、かつての誤った戦争政策を真正面から反省していないこの国の病弊を見るのは無理筋でしょうか。
教訓にすべきことの第二は、これも適切な言葉が見当たらないのですが、「拡張された国益―民族主義的、イデオロギー的国益」とでも言うべき観念にとらわれてはいけないということです。
ロシアの行動の背景にはユーラシア大陸の大半に版図を拡げた旧ソ連時代の記憶があると思われます。そのもとではウクライナもベラルーシも、ジョージアも、ロシアを盟主とするソビエト連邦の傘下にあったのです。プーチンの振る舞いがその記憶にとらわれたものであるということは、争えないところでしょう。観念的に拡張された「民族主義的国益」です。
今、日本の軍備拡張を主張している人々の脳裏をよぎっているであろう「国益」の重要部分は三つの領土問題でしょう。尖閣列島(魚釣島)を中国と、竹島(独島)を韓国と、そして千島列島をロシアと、この三件の争いがナショナリズムを煽り、「国防」を主張する材料になっています。その先兵である「維新の党」の若い議員が言ったように、かれらの思想では「領土問題は戦争でしか解決しない」のです。
しかし、冷静に考えると、これらのいずれの争いも、「国の命運をかけて軍事的手段に訴えてでも」争わなくてはいけない「国益」がかかっているのでしょうか?私にはいずれの争いも経済的、社会的な打開の道がありそうに思えます。海底資源と漁業資源の話は経済的交渉のテーマになるはずです。海域の自由交通権問題も同じです。そこにお互いが軍事の論理とイデオロギーに絡みつかれた「国益」を持ち込みさえしなければ・・・。
イデオロギーと軍事的論理で化け物のように拡大された「国益」。その「国益」をその国の人々が暮らしていく上での利益にまで還元してしまえば、事態はもっと平明なものになるはずです。
今の世界で、国際紛争を引き起こし、多くをこじらせている大きな原因の一つがこの「拡張された『国益』=ナショナリズム」だと思います。
これから免れた国際紛争の解決の道筋を探らねばなりません。
以前にも書きましたが、まる一世紀歴史を巻き戻したかのようなロシアの侵略、そしてそれをめぐる軍事的地政学的論理とイデオロギー的ナショナリズムに絡みつかれた戦争拡大の危機¬―戦争を解決するに戦争をもってする―。今回も我々はそのディレンマから解き放たれないかに見えます
この危機に対抗するものは、今回大きく登場した、全世界の人々の「世界世論」とでもいうべき発言と発信の高まり以外にありません。国々が語る「国際世論」ではなく人々が発する「世界世論」です。この「世界世論」は情報・通信の飛躍的発達で、以前では考えられなかった規模と速度で影響を拡げます。
そしてその「世界世論」は、パリ不戦条約以来、現在の国連憲章、日本国憲法などに続く、戦争否定の思想に依拠しています。
「人間の尊厳」を基本として戦争を否定する考え方は、今や単なる「理想」「たてまえ」の域を超えて、国際法規の地位を確立し、世界の人々の「世界世論」をその基礎に持つようになったのです。
閑話休題
もう一つ、その陰に起きている恐るべきこととして、マスコミの視点の変化を挙げておかねばなりません。
ゴールデンタイムのテレビニュースに軍人が、解説者として、したり顔に出演し、戦争を地政学的に説明することが蔓延しているのです。地政学的には戦争は必然として説明されます。地政学的には「敵」を作った限りは緩衝地帯が必要となり、「国益」を拡張すれば、無際限な領土拡大が必要となるのです。ヒトラーの最も説得力のあったスローガンは「東に生存権を拡張する」だったのです。
もっと矮小なことですが、悲しむべき事に、情勢を狭い「軍事」で説明することが流行しだしました。それも軍人が出演して、です。
どう前線が動いたか、ならまだしも、アメリカが供与した「(おそらく155mm)りゅう弾砲」の数が戦局を左右するものであるといわれます。対戦車ミサイル「ジャベリン」や対空ミサイル「スティンガー」の効果が重大事として報道されるニュースに浸かってしまった我々に、戦争をやめさせたり、回避する道筋を考えたりすることは容易ではなくなってしまいます。
マスコミもかつてハマった落とし穴に気を付けてほしいものです。
「ロシアのウクライナ侵攻反対」と言ったら文句言われた。 ― 2022/03/14
「ロシアはウクライナ侵攻をやめろ」と言ったら左翼仲間から文句がでました
「ロシアによるウクライナ侵攻反対」と声を上げると(FBに書いたのと、街頭にゼッケンをもって立っただけですが)、「酒井さん、何やら批判されているよ」と教えてくれる人がありました。
「何かまずいことを言ったかしら」と不安になっていろいろ聞きまわったり、調べたりすると、その批判が真面目なものだということがわかって安心しました。しかし、真面目なものであるだけ、真っ向から反論することが礼儀だと思いますので、頑張ります。
まず、批判の中身です。
1 ロシアの侵攻を非難するのなら、アメリカやNATOの拡大戦略をも取り上げ、同時に避難するのでなければ問題を見誤る。
2 同時に、ウクライナ国家によるロシア系住民への迫害も取り上げるべきだ。ゼレンスキー大統領も右派、大衆迎合的傾向を持っているのだ。
3 ウクライナには極端な民族主義者、ネオナチと言えるような勢力もおり、それらへの批判も必要だ。
私の知る限り、このくらいの問題指摘だったと思います。
まずは、多くの知識人の背景説明や解説を紹介していただいたことに感謝します。私がウクライナについて知っていた事と言えば、キエフ公国からソ連時代のなかなか複雑そうな民族対立や抑圧迫害の歴史を少し、と中国が買ったワリャーグという名の航空母艦の下の持ち主がウクライナだったことくらいでした。ああ、あと、「クリミア半島」「セヴァストポリ」など世界史上結節点となった地名たちくらいです。もう一つ、これは思い違いだったのですが「レッドオクトーバーを追え」という小説の主人公-ソ連の最新鋭潜水艦を指揮して亡命をはかるソ連の艦長-の亡命の動機が、ウクライナのロシアに対する民族的恨みだったという話。これはその艦長の出自がリトアニア(これも自信がありません、バルト3国です)だったので思い違いでした。でもソ連の民族問題の一つであることには間違いありません。
もう一つ後で知ったのですが、ネタになるかも知れない話です。ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」という映画で第二次大戦にイタリア兵として従軍した彼女の夫が雪の中敗退する舞台となり、映画の主題ともいえるひまわり畑があったのがウクライナだったそうです。その話があってから私の周りの仲間が急に「ひまわり」のテーマ曲を聴き口ずさみだしたのです。
それはさておき、私の反論です。
A 「どんな喧嘩、戦争にも互いの言い分はある。」ということです。これらの指摘は、どれも、それに対応する事実があるのでしょう。勉強になりました。
しかし、これらの指摘の全ては「プーチンも挙げている」戦争の「大義」でもあります。それらを示唆して「侵攻反対」の主張に「それだけを言っていてはいけないよ」と「諭す」ことにどんな意義があるのでしょう。
B 1の「NATOに加盟するかどうか」はウクライナの内政問題ではないですか? アメリカや西欧諸国が不当な工作でNATO加盟をそそのかしたり、強要したりしているとしても
それはそれで批判の対象ですが、最終的にはウクライナの国が決めるべきことです。
「ウクライナがNATOに入るのは我が国の安全にかかわる」というロシアの主張は正当なのですか?
一世紀前の我が国も同じ主張をしていましたね。125年前には「朝鮮がロシアの勢力圏に入ったら我が国は危機だ」と言って日露戦争になりました(時系列的には、「しかけ」ました)。90年前には「ソ連との間に緩衝地帯が必要」との本音の下に中国東北区を軍事支配しました。
「隣国が『敵対的になる』ことは嫌だ」「敵対勢力との間に緩衝地帯が必要」「したがってわが勢力圏はもっと広がらなくてはいけない」という論理は、一世紀前に私たちの国がおちいり、行く道を誤った、その原因ではなかったでしょうか。
あの時の我が国にもそれなりの言い分はありました。「満州事変」を調査した国際連盟のリットン調査団でさえ、日本と中国、双方の非を認めていたのです。
一世紀前もそうですが、私たちが経験している現代史で話しましょう。アメリカのアフガニスタン侵攻はどうですか?「9・11の首謀者ビンラディンをやっつける。テロの根を断つ」ということが、アメリカが掲げた戦争の「大義」でした。それを認めずに私たちはアメリカを非難しましたよね。今回なぜロシアを「一方的に非難」してはいけないのですか?
二度の世界大戦を経て、少なくとも現代では「自衛」か「人道」以外の目的を掲げた武力行使は、世界中の非難を浴びるようになりました。昔は違ったのですよ。戦争は、その動機は領土拡張であろうがなんであろうが、恰も正々堂々の決闘であるかのように演出されていたのです。二度の世界大戦でその認識は変わりました
現代では、すべての武力行使は「自衛か人道」の大義を掲げて行なわれます。古来言われた「『無名の(大義名分なき)師(軍事)』はおこしてはならない」の「名」は、現代では「自衛と人道」になったのです。
今回のロシアのウクライナ侵攻は「自衛、人道」という名分のない「無名の師」なのです。
これは、一切の保留抜きに非難、糾弾されるべきことではないですか。
ウクライナに極右勢力がはびこっていようが、少数民族が抑圧されていようが、一つの国が武力でそれに介入していいという理由にはなりません。それはウクライナの内政問題であり、戦争以外の手段で糾されるべき事です。それを口実に軍事的に攻め込むことを許せば、まだ世界中に民族問題、差別、迫害がはびこる中で、戦争の種は尽きないということになりませんか。
ユーゴスラビアが内戦状態になった時、当時ドイツの連立政権に加わっていた「ドイツ緑の党」は大会で、コソボへの爆撃をめぐって生卵や腐ったトマトが飛び交う大論争を展開したと聞きます。「人道上やむをえない」という党指導部が激しい批判を浴びたようです。
「人道上必要」という理由でさえ、今は厳しい批判を浴びなくてはならないのです。
しかし戦争はなくなりません。
第二次世界大戦の始まりはナチスドイツのポーランド侵攻であった事になっています。その一年前にチェコスロバキアに対してドイツがズデーテン地方の割譲を要求したとき、イギリスのチェンバレン首相は仲裁に入ってチェコに割譲を認めさせました。話し合いによる戦争の回避です。しかし、それに味を占めたドイツがポーランドに攻め込んだので、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。いわゆる集団的自衛権です。結局、話し合いと妥協でも戦争を避けることはできませんでした。
今のウクライナ戦争ととても良く似ています。結局、今もあの時と同じく戦争を避ける手段はないのでしょうか。
そうは思いたくありません。
現在、私たちが持てる希望があるとすればそれは、世界中に張り巡らされた情報ネットワークです。これはこの戦争で際立って浮かび上がりました。今、私たちはほとんど現在進行形で、断片的とはいえかなり多面的な戦争情報に接しています。だから、それに反応して「戦争は止めろ」の声を上げることができるチャンスを享受しています。ベトナム戦争がその始まりだったかも知れません。しかし今私たちが接している情報の量と質は比較にならないでしょう。
第一次、第二次世界大戦当時、それはありませんでした。人々は各国の政府とその統制下にあったメディアの支配下におかれていました。特に日本やドイツでは。
情報が入って、人々が声を上げる。デモをする。情報統制の厳しい戦争当事国でさえそれが起きている。世界中の人々が戦争に反対し、それを表現する意思を持っている。これは希望です。「世界世論」とでもいうべきものが、初めて本当に力を発揮するかも知れないのです。「世界世論」はもちろん国境を越えます。
その基準は、今のところ「自衛と人道以外の目的の戦争は許されない」「自衛、人道の目的にしてもそれは厳格に判定される。口実にすることは許されない」でしょう。
それはもはや軍事や交戦権の領域にはなく、国際警察機能の世界に入るのでしょう。国際連合が掲げた「理想」そのものです。
もう一つ。
今回の出来事は、図らずも「核兵器を持った国が不当に他国に侵攻しても、軍事力をもってそれを止めることはできない」ということをあきらかにしました。かつてアメリカやソ連はその不当な行為をやってきたのです。アメリカの行為を相手国であるソ連やロシアは不満でも黙って見ているしかなかったこの半世紀だったのです。
そのアメリカが、屈辱的にもロシアの侵攻をなすすべもなくみています。どんな国益上の理由があるのか知りませんが、世界中の人々の前にさらされているこの姿は、かつてのアメリカならば耐えられないことであったでしょう。そのアメリカが言います。「どんな理由があるにせよ他国に武力で攻め込むことは許されない」しかも、だからと言ってそれに武力で反撃することもしない、のです。
これは、軍事的には大変正しい判断だと思います。どれほどロシアが悪かろうが、ヨーロッパから全世界に核戦争を拡げる選択はできないでしょう。アメリカやNATOでは政治指導部より軍部の方がこの点では冷静で現実的なのでしょう。
アメリカがこういう選択をしたことは、実は希望の一つです。その意図にかかわりなくアメリカは「正義の戦争」「侵略に反対する戦争」をさえ選択しなかったのです。そしてそれを、「おじけづいたからではなく、それが正しいから選んだ」と言わざるを得ないのです。自らがこの一世紀世界中でやってきたことを「棚に上げて」です。
それは、新たな世界の正義がその萌芽を見せたとは言えないでしょうか?
「いかなる理由であれ、戦争を仕掛けてはいけない」「仕掛けた国や勢力は世界中から『有効な』糾弾を受ける」アメリカがそう言って、しかし戦争はせずにいるのです。
私は今、ウクライナの普通の人々の抵抗精神とともに在りたいと思います。逮捕覚悟でデモに出ているロシアの人々の正義感と共感することができます。世界中の侵攻を許さない声を上げ、また心に思う人々と共に歩みたいと思います。
それは、「ロシアはウクライナ侵攻をやめろ」の声を上げ、少なくとも心に思い、できる形であらわすことではないでしょうか。それ以外にできることは思い浮かびませんし、ほかに希望はありません。
国連軍で止めることは可能性がありませんし、本意ではありません。義勇軍で止めるという荒唐無稽なことも考えられません。
ロシアと戦うために銃を抱いているウクライナの人々に、民族主義やネオナチをどうこうしろと言っている暇もありません。それは、ロシアが軍を引いた後でやりましょう。
もう一度、繰り返します。どんな喧嘩にも、お互い言い分はあるものです。しかしまずは先に手を出した方や、強い方からたしなめるものでしょう?仲裁や正邪の判定はそのあとでしょう。違いますか?
「ロシアによるウクライナ侵攻反対」と声を上げると(FBに書いたのと、街頭にゼッケンをもって立っただけですが)、「酒井さん、何やら批判されているよ」と教えてくれる人がありました。
「何かまずいことを言ったかしら」と不安になっていろいろ聞きまわったり、調べたりすると、その批判が真面目なものだということがわかって安心しました。しかし、真面目なものであるだけ、真っ向から反論することが礼儀だと思いますので、頑張ります。
まず、批判の中身です。
1 ロシアの侵攻を非難するのなら、アメリカやNATOの拡大戦略をも取り上げ、同時に避難するのでなければ問題を見誤る。
2 同時に、ウクライナ国家によるロシア系住民への迫害も取り上げるべきだ。ゼレンスキー大統領も右派、大衆迎合的傾向を持っているのだ。
3 ウクライナには極端な民族主義者、ネオナチと言えるような勢力もおり、それらへの批判も必要だ。
私の知る限り、このくらいの問題指摘だったと思います。
まずは、多くの知識人の背景説明や解説を紹介していただいたことに感謝します。私がウクライナについて知っていた事と言えば、キエフ公国からソ連時代のなかなか複雑そうな民族対立や抑圧迫害の歴史を少し、と中国が買ったワリャーグという名の航空母艦の下の持ち主がウクライナだったことくらいでした。ああ、あと、「クリミア半島」「セヴァストポリ」など世界史上結節点となった地名たちくらいです。もう一つ、これは思い違いだったのですが「レッドオクトーバーを追え」という小説の主人公-ソ連の最新鋭潜水艦を指揮して亡命をはかるソ連の艦長-の亡命の動機が、ウクライナのロシアに対する民族的恨みだったという話。これはその艦長の出自がリトアニア(これも自信がありません、バルト3国です)だったので思い違いでした。でもソ連の民族問題の一つであることには間違いありません。
もう一つ後で知ったのですが、ネタになるかも知れない話です。ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」という映画で第二次大戦にイタリア兵として従軍した彼女の夫が雪の中敗退する舞台となり、映画の主題ともいえるひまわり畑があったのがウクライナだったそうです。その話があってから私の周りの仲間が急に「ひまわり」のテーマ曲を聴き口ずさみだしたのです。
それはさておき、私の反論です。
A 「どんな喧嘩、戦争にも互いの言い分はある。」ということです。これらの指摘は、どれも、それに対応する事実があるのでしょう。勉強になりました。
しかし、これらの指摘の全ては「プーチンも挙げている」戦争の「大義」でもあります。それらを示唆して「侵攻反対」の主張に「それだけを言っていてはいけないよ」と「諭す」ことにどんな意義があるのでしょう。
B 1の「NATOに加盟するかどうか」はウクライナの内政問題ではないですか? アメリカや西欧諸国が不当な工作でNATO加盟をそそのかしたり、強要したりしているとしても
それはそれで批判の対象ですが、最終的にはウクライナの国が決めるべきことです。
「ウクライナがNATOに入るのは我が国の安全にかかわる」というロシアの主張は正当なのですか?
一世紀前の我が国も同じ主張をしていましたね。125年前には「朝鮮がロシアの勢力圏に入ったら我が国は危機だ」と言って日露戦争になりました(時系列的には、「しかけ」ました)。90年前には「ソ連との間に緩衝地帯が必要」との本音の下に中国東北区を軍事支配しました。
「隣国が『敵対的になる』ことは嫌だ」「敵対勢力との間に緩衝地帯が必要」「したがってわが勢力圏はもっと広がらなくてはいけない」という論理は、一世紀前に私たちの国がおちいり、行く道を誤った、その原因ではなかったでしょうか。
あの時の我が国にもそれなりの言い分はありました。「満州事変」を調査した国際連盟のリットン調査団でさえ、日本と中国、双方の非を認めていたのです。
一世紀前もそうですが、私たちが経験している現代史で話しましょう。アメリカのアフガニスタン侵攻はどうですか?「9・11の首謀者ビンラディンをやっつける。テロの根を断つ」ということが、アメリカが掲げた戦争の「大義」でした。それを認めずに私たちはアメリカを非難しましたよね。今回なぜロシアを「一方的に非難」してはいけないのですか?
二度の世界大戦を経て、少なくとも現代では「自衛」か「人道」以外の目的を掲げた武力行使は、世界中の非難を浴びるようになりました。昔は違ったのですよ。戦争は、その動機は領土拡張であろうがなんであろうが、恰も正々堂々の決闘であるかのように演出されていたのです。二度の世界大戦でその認識は変わりました
現代では、すべての武力行使は「自衛か人道」の大義を掲げて行なわれます。古来言われた「『無名の(大義名分なき)師(軍事)』はおこしてはならない」の「名」は、現代では「自衛と人道」になったのです。
今回のロシアのウクライナ侵攻は「自衛、人道」という名分のない「無名の師」なのです。
これは、一切の保留抜きに非難、糾弾されるべきことではないですか。
ウクライナに極右勢力がはびこっていようが、少数民族が抑圧されていようが、一つの国が武力でそれに介入していいという理由にはなりません。それはウクライナの内政問題であり、戦争以外の手段で糾されるべき事です。それを口実に軍事的に攻め込むことを許せば、まだ世界中に民族問題、差別、迫害がはびこる中で、戦争の種は尽きないということになりませんか。
ユーゴスラビアが内戦状態になった時、当時ドイツの連立政権に加わっていた「ドイツ緑の党」は大会で、コソボへの爆撃をめぐって生卵や腐ったトマトが飛び交う大論争を展開したと聞きます。「人道上やむをえない」という党指導部が激しい批判を浴びたようです。
「人道上必要」という理由でさえ、今は厳しい批判を浴びなくてはならないのです。
しかし戦争はなくなりません。
第二次世界大戦の始まりはナチスドイツのポーランド侵攻であった事になっています。その一年前にチェコスロバキアに対してドイツがズデーテン地方の割譲を要求したとき、イギリスのチェンバレン首相は仲裁に入ってチェコに割譲を認めさせました。話し合いによる戦争の回避です。しかし、それに味を占めたドイツがポーランドに攻め込んだので、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。いわゆる集団的自衛権です。結局、話し合いと妥協でも戦争を避けることはできませんでした。
今のウクライナ戦争ととても良く似ています。結局、今もあの時と同じく戦争を避ける手段はないのでしょうか。
そうは思いたくありません。
現在、私たちが持てる希望があるとすればそれは、世界中に張り巡らされた情報ネットワークです。これはこの戦争で際立って浮かび上がりました。今、私たちはほとんど現在進行形で、断片的とはいえかなり多面的な戦争情報に接しています。だから、それに反応して「戦争は止めろ」の声を上げることができるチャンスを享受しています。ベトナム戦争がその始まりだったかも知れません。しかし今私たちが接している情報の量と質は比較にならないでしょう。
第一次、第二次世界大戦当時、それはありませんでした。人々は各国の政府とその統制下にあったメディアの支配下におかれていました。特に日本やドイツでは。
情報が入って、人々が声を上げる。デモをする。情報統制の厳しい戦争当事国でさえそれが起きている。世界中の人々が戦争に反対し、それを表現する意思を持っている。これは希望です。「世界世論」とでもいうべきものが、初めて本当に力を発揮するかも知れないのです。「世界世論」はもちろん国境を越えます。
その基準は、今のところ「自衛と人道以外の目的の戦争は許されない」「自衛、人道の目的にしてもそれは厳格に判定される。口実にすることは許されない」でしょう。
それはもはや軍事や交戦権の領域にはなく、国際警察機能の世界に入るのでしょう。国際連合が掲げた「理想」そのものです。
もう一つ。
今回の出来事は、図らずも「核兵器を持った国が不当に他国に侵攻しても、軍事力をもってそれを止めることはできない」ということをあきらかにしました。かつてアメリカやソ連はその不当な行為をやってきたのです。アメリカの行為を相手国であるソ連やロシアは不満でも黙って見ているしかなかったこの半世紀だったのです。
そのアメリカが、屈辱的にもロシアの侵攻をなすすべもなくみています。どんな国益上の理由があるのか知りませんが、世界中の人々の前にさらされているこの姿は、かつてのアメリカならば耐えられないことであったでしょう。そのアメリカが言います。「どんな理由があるにせよ他国に武力で攻め込むことは許されない」しかも、だからと言ってそれに武力で反撃することもしない、のです。
これは、軍事的には大変正しい判断だと思います。どれほどロシアが悪かろうが、ヨーロッパから全世界に核戦争を拡げる選択はできないでしょう。アメリカやNATOでは政治指導部より軍部の方がこの点では冷静で現実的なのでしょう。
アメリカがこういう選択をしたことは、実は希望の一つです。その意図にかかわりなくアメリカは「正義の戦争」「侵略に反対する戦争」をさえ選択しなかったのです。そしてそれを、「おじけづいたからではなく、それが正しいから選んだ」と言わざるを得ないのです。自らがこの一世紀世界中でやってきたことを「棚に上げて」です。
それは、新たな世界の正義がその萌芽を見せたとは言えないでしょうか?
「いかなる理由であれ、戦争を仕掛けてはいけない」「仕掛けた国や勢力は世界中から『有効な』糾弾を受ける」アメリカがそう言って、しかし戦争はせずにいるのです。
私は今、ウクライナの普通の人々の抵抗精神とともに在りたいと思います。逮捕覚悟でデモに出ているロシアの人々の正義感と共感することができます。世界中の侵攻を許さない声を上げ、また心に思う人々と共に歩みたいと思います。
それは、「ロシアはウクライナ侵攻をやめろ」の声を上げ、少なくとも心に思い、できる形であらわすことではないでしょうか。それ以外にできることは思い浮かびませんし、ほかに希望はありません。
国連軍で止めることは可能性がありませんし、本意ではありません。義勇軍で止めるという荒唐無稽なことも考えられません。
ロシアと戦うために銃を抱いているウクライナの人々に、民族主義やネオナチをどうこうしろと言っている暇もありません。それは、ロシアが軍を引いた後でやりましょう。
もう一度、繰り返します。どんな喧嘩にも、お互い言い分はあるものです。しかしまずは先に手を出した方や、強い方からたしなめるものでしょう?仲裁や正邪の判定はそのあとでしょう。違いますか?
ロシアのウクライナ侵攻に思う ― 2022/03/07
ロシアのウクライナ侵攻に思う
2022年3月7日
酒井 一
今回のウクライナ侵攻。考えれば考えるほど、第2次世界大戦の始まりと酷似しています。ナチスドイツとロシアが入れ替わっているのが皮肉ですが・・・。
〇ナチスドイツのヒトラーは、1938年、チェコ・スロバキアに対して「ドイツ系住民がたくさんいる」という理由でズデーテン地方の割譲を要求した。
プーチンは2014年のクリミア強奪も、今回の侵攻も「ロシア系住民が多く住んでいる」という理由で正当化している。
〇ヒトラーは1939年ポーランドに一方的に侵攻し征服した。
プーチンも今まさに一方的にウクライナに攻め込んで、非軍事化と中立化を強要している。
〇当時、チェンバレンのイギリスはズデーテン割譲を「今度だけよ」と許した。正確にはチェコスロバキアとナチスドイツの間を仲裁した。チェンバレンはドイツを非難しながら軍事的対決は避けた。
今回もアメリカや英仏独(NATO)は、「ウクライナに軍は送らない」と明言して直接対決を避けた。
とてもむつかしい問題です。ズデーテン地方併合について、「ナチスの横暴を許し、戦争を避けたことでのちのポーランド侵攻を許した」との批判がありました。しかし、ポーランド侵攻に対しては戦争をもって応じたので第二次世界大戦がはじまったのです。
再びしかし、・・・、ではポーランド侵攻も黙って容認すればよかったのか? そうとも言いきれないでしょう。
じゃあいったいどうすればよかったのでしょうか?
歴史の教訓は、一見絶望的であるかのようです。
大きな武力(核兵器も)を持った暴力的な国家が現れた時、屈服するか、武力で対抗して世界戦争(現代では核戦争)に突入するかしか選択肢はないのでしょうか?
80年前と現在の最も大きな違いは、世界中の人々の侵略反対の意思表示です。侵略国であるロシアでも公然と侵攻反対の声が上がっているのです。当時のドイツでは、(日本でも)反戦の声は、ナショナリズムの高揚と厳しい弾圧のせいもあってほぼ完全に封じられていました。現在のロシアでもナショナリズムと弾圧はありますが、それにも屈しない意思表示が続いています。そしてそれが当時と比べて飛躍的に発達した様々なメディアを通じて世界中に広がっています。世界中の人びとがお互いの反戦の意思を共有できるのです。これで生まれる「世界世論」のうねりは、侵略者にとっても決して侮れるものではないと思います。
もう一つは「侵略戦争は国際法違反」との認識の広がりと深まりです。
米ソ対立時代以降、これほどあからさまな侵略戦争はアメリカ以外やってきませんでした。そのアメリカが「侵略戦争反対」の理念を掲げている事、それが世界の大多数の国際世論と一致している事にも注目しておかねばなりません。
アメリカには「言ったよね、『一方的な侵攻はあかん。武力による現状変更はあかん。核の恫喝はあかん。』それが自分に跳ね返ることはわかっているよね。」というべきです。
これら二つを合わせて盛り上がる「世界世論」とでもいうべきもの、それしか私たちがよるべきものはないのでしょう。
さて、肝心の日本です。日本の安全保障について、維新の党などが「ウクライナの悲劇を見ても憲法9条を守れなどと言えないだろう」とうそぶいたらしいです。このように主張する人々が増えるのでしょう。
それにはこう答えましょう。
「もちろんウクライナ軍の健闘には敬意を表する。しかし、はるかに素晴らしく、希望があるのは、戦車や兵士の前に丸腰で立ちはだかって抵抗するウクライナの市民の姿だ。」
「丸腰で侵略に立ち向かえというのか」との非難が聞こえてきそうです。
その声にはこう答えましょう。
「9条の下でも自衛戦争は許される」というのが今や日本の大勢で、共通了解と言ってもよい。とりあえずその立場に立つとしよう。しかし自衛軍備で戦争を抑止しようとしても、抑止を求める限り際限のない軍備拡張競争に入り込んでしまいはしないか。
例えば中国を相手に軍拡競争をするとする。たとえ専守防衛に限るとしても、今の中国の軍備拡張に対抗することは経済的に不可能だろう。中国の経済規模はそこまで来ている。だからこそ彼らは今のように居丈高になれるのだ。」
日米安保、アメリカに頼ることもよく言われますが、アメリカを全面的に信用するわけにはいかないでしょう。「アメリカとの核の共有」などと言うたわごとを口走っている人たちはアメリカの対日政策を全く知らないと言うしかないでしょう。ウクライナのように、世界大戦-核戦争を回避するために見殺しにされないという保証はどこにもありません。
ことほど左様に、他のすべての選択肢は絶望的なのです。
利き目は遅いかもしれません。効き目が出る前にひどい目に合うかもしれません。
しかし、他の選択肢が地獄への道である以上、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」平和国家としての矜持と、武力に屈しない信念を持つに値する幸福な社会づくりに努め、それを尊敬し支援する世界の世論に依拠するしか私たちの希望はないと思い定めるべきなのです。
2022年3月7日
酒井 一
今回のウクライナ侵攻。考えれば考えるほど、第2次世界大戦の始まりと酷似しています。ナチスドイツとロシアが入れ替わっているのが皮肉ですが・・・。
〇ナチスドイツのヒトラーは、1938年、チェコ・スロバキアに対して「ドイツ系住民がたくさんいる」という理由でズデーテン地方の割譲を要求した。
プーチンは2014年のクリミア強奪も、今回の侵攻も「ロシア系住民が多く住んでいる」という理由で正当化している。
〇ヒトラーは1939年ポーランドに一方的に侵攻し征服した。
プーチンも今まさに一方的にウクライナに攻め込んで、非軍事化と中立化を強要している。
〇当時、チェンバレンのイギリスはズデーテン割譲を「今度だけよ」と許した。正確にはチェコスロバキアとナチスドイツの間を仲裁した。チェンバレンはドイツを非難しながら軍事的対決は避けた。
今回もアメリカや英仏独(NATO)は、「ウクライナに軍は送らない」と明言して直接対決を避けた。
とてもむつかしい問題です。ズデーテン地方併合について、「ナチスの横暴を許し、戦争を避けたことでのちのポーランド侵攻を許した」との批判がありました。しかし、ポーランド侵攻に対しては戦争をもって応じたので第二次世界大戦がはじまったのです。
再びしかし、・・・、ではポーランド侵攻も黙って容認すればよかったのか? そうとも言いきれないでしょう。
じゃあいったいどうすればよかったのでしょうか?
歴史の教訓は、一見絶望的であるかのようです。
大きな武力(核兵器も)を持った暴力的な国家が現れた時、屈服するか、武力で対抗して世界戦争(現代では核戦争)に突入するかしか選択肢はないのでしょうか?
80年前と現在の最も大きな違いは、世界中の人々の侵略反対の意思表示です。侵略国であるロシアでも公然と侵攻反対の声が上がっているのです。当時のドイツでは、(日本でも)反戦の声は、ナショナリズムの高揚と厳しい弾圧のせいもあってほぼ完全に封じられていました。現在のロシアでもナショナリズムと弾圧はありますが、それにも屈しない意思表示が続いています。そしてそれが当時と比べて飛躍的に発達した様々なメディアを通じて世界中に広がっています。世界中の人びとがお互いの反戦の意思を共有できるのです。これで生まれる「世界世論」のうねりは、侵略者にとっても決して侮れるものではないと思います。
もう一つは「侵略戦争は国際法違反」との認識の広がりと深まりです。
米ソ対立時代以降、これほどあからさまな侵略戦争はアメリカ以外やってきませんでした。そのアメリカが「侵略戦争反対」の理念を掲げている事、それが世界の大多数の国際世論と一致している事にも注目しておかねばなりません。
アメリカには「言ったよね、『一方的な侵攻はあかん。武力による現状変更はあかん。核の恫喝はあかん。』それが自分に跳ね返ることはわかっているよね。」というべきです。
これら二つを合わせて盛り上がる「世界世論」とでもいうべきもの、それしか私たちがよるべきものはないのでしょう。
さて、肝心の日本です。日本の安全保障について、維新の党などが「ウクライナの悲劇を見ても憲法9条を守れなどと言えないだろう」とうそぶいたらしいです。このように主張する人々が増えるのでしょう。
それにはこう答えましょう。
「もちろんウクライナ軍の健闘には敬意を表する。しかし、はるかに素晴らしく、希望があるのは、戦車や兵士の前に丸腰で立ちはだかって抵抗するウクライナの市民の姿だ。」
「丸腰で侵略に立ち向かえというのか」との非難が聞こえてきそうです。
その声にはこう答えましょう。
「9条の下でも自衛戦争は許される」というのが今や日本の大勢で、共通了解と言ってもよい。とりあえずその立場に立つとしよう。しかし自衛軍備で戦争を抑止しようとしても、抑止を求める限り際限のない軍備拡張競争に入り込んでしまいはしないか。
例えば中国を相手に軍拡競争をするとする。たとえ専守防衛に限るとしても、今の中国の軍備拡張に対抗することは経済的に不可能だろう。中国の経済規模はそこまで来ている。だからこそ彼らは今のように居丈高になれるのだ。」
日米安保、アメリカに頼ることもよく言われますが、アメリカを全面的に信用するわけにはいかないでしょう。「アメリカとの核の共有」などと言うたわごとを口走っている人たちはアメリカの対日政策を全く知らないと言うしかないでしょう。ウクライナのように、世界大戦-核戦争を回避するために見殺しにされないという保証はどこにもありません。
ことほど左様に、他のすべての選択肢は絶望的なのです。
利き目は遅いかもしれません。効き目が出る前にひどい目に合うかもしれません。
しかし、他の選択肢が地獄への道である以上、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」平和国家としての矜持と、武力に屈しない信念を持つに値する幸福な社会づくりに努め、それを尊敬し支援する世界の世論に依拠するしか私たちの希望はないと思い定めるべきなのです。